人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

自分以外の他人が様々な形で存在していること

自分以外の他人(もう1人の私)がこの地上に様々な形で存在しているという事実は私にとって物凄く不思議である。

私と他人(もう1人の私)とはとても似ているが全然違う。でも同じ人間だから色々なことを想像することによって理解しあえたり共感しあえたりする不思議な存在だ。

昨夜部屋の中でそんなことを漠然と考えながら眠りについだのだった。

そんな時にふと思ったのはフィリピンの首都マニラの路上生活者の方だった。マニラに行き、繁華街とも言えるエルミタ、マラテ地区の路上を歩いてみるとわかるのだがとんでもない数の路上生活者やストリートチルドレンがいて驚愕する。

建物のちょっとした隙間にダンボールを強いて着の身着のままで白昼堂々寝ている方はたくさんいるし、家族揃って路上でダンボールを敷いて寝ている方々も多い。

コンビニに行けば必ずと言っていいほどストリートチルドレンや物乞いの親子がいて手を差し出しているのが現状である。

夜になるとエルミタ・マラテ地区から歩いてすぐのところにあるマニラ湾のベイストリートはホームレスの家と化す。

そこら中からホームレスが集まってきて地面にそのまま寝たり、ダンボールや敷物を敷いて寝たり、ホームレス同士のカップルがいちゃいちゃしてたり、ホームレス一家が団欒をしていたりと壮絶な光景を目の当たりにすることができる。

人間ってこんなに路上で寝られるものなのか?と信じられない気分にもなる。

恐らく日中は日雇い作業をしたり、ごみ拾いをしたり、物乞いをしたり各自がそれぞれ活動をして小銭を集めて帰る家はないほど貧乏だから仕方なく多くの同業者が集まってくるマニラ湾のベイストリートで海風を浴びながら横になって1晩を過ごすのだろう。

しかし、私には到底外で着の身着のままの状態で寝ることなど考えられない。1日だってできないだろうしもちろんしたくない。

路上でそのまま横たわるのと山などでテントをはって横たわるのも全然違う。テントのようなもので守られたり、寝袋のようなものを身に着けたりできればだいぶつらさは軽減できるだろうが、もちろんそんなお金を持たない人達である。

お金がなければ本当にそのままとりあえず路上で横たわって夜を明かすしかないのである。そして、そうせざるを得ず、実際にそうしている人達がマニラに行くとめちゃくちゃたくさんいることに気付くのだ。

インドなどに行くとさらに多くなる。インドはさらに貧困の奥が深すぎて収集がつかなくなりとてもここで語れるほどではないのでとりあえず置いておくが、フィリピンの貧困の深刻さも非常に深い。

色々なことに悩みながら苦しみながら生きている自分だが、それでも毎日雨風防げる部屋の中で安心して横になれることに感謝しなければならないとつくづく感じたのだった。

こうやって実感できるのも現地に足を運んで何回も路上で生きていかざるを得ない貧しい人達をこの目で見て脳裏に焼き付けた経験があるからである。一見は百聞に如かず。なんでも見てみなければ始まらない。

マニラの路上生活者で最も頭に焼き付いているのはある半キチガイの老婆が赤ん坊二人を路上のダンボール上で育てている光景である。

赤ん坊は素っ裸である。何もつけていない。産まれてきたままの格好である。それが多くの人が行きかう路上で白昼堂々行われているのだ。

あの老婆はなんか変なことをいいながらわめいたり叫んだりしながらそれでも赤ん坊を路上で育てているのだ。you tubeにたまたま発見したのだが、この老婆と赤ん坊である↓生で見るとまた違った迫力がある。


フィリピンの路上で・・・ - YouTube

可哀想なのはこんな残酷な状況で産まれさせられてしまった赤ん坊である。多分親に捨てられて老婆に拾われたのだろう。フィリピンはカトリックの国で基本的には中絶を認めない考えの国だからとりあえず生むだけ生んで捨ててしまう親がたくさんいる。

あの赤ん坊や類似した子供たちのことを考えるとどうしても自分は恵まれた環境で生きていることに感謝したくなる。

生きるということは本当に残酷なことである。とんでもなく残酷な状況がそこかしこにある。

理不尽なのはほとんど当たり前のことと言って良いくらい日常茶飯事である。世界を見に行くとこのような理不尽を再確認できたりしてはっとさせられる。

生きるのは甘くないと言う現実を。