人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

自分の中の不幸を味わいつくすと言うこと

私の好きな哲学者中島義道氏の著書の中に「不幸論」(PHP出版)があるのだがその中にこのような一節がある。

引用p4~ ミル(ジョンスチュワート・ミル)は青年の私に、幸福になりたかったら(そのころ、まだ私は自分が幸福になれると信じていた)、幸福を直接求めてはならないことを教えてくれた。ほかのことに熱中しているときに、フッと感じる満足感、それが幸福なのである。

しかし、歳をとるにつれて、精神を集中させる目的はまず見つからないことがわかり、たとえそれが見つかっても、それは私を幸福にしないことがわかった。幸福とは求めれば求めるほど遠ざかるもの、そういう構造をもっていると思うようになった。といって、求めなければ自然に与えられるものでもない。どうころんでも与えられないものなのだ。そう思うようになった。

引用p203 幸福になろうとすること、それは自分自身を選ぶことを断念することである。自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の「かたち」を選ぶことである。

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この「不幸論」と言う本は哲学者中島義道氏が人間は自分自身に真面目に正直にごまかしなく素直に向き合えば決して幸福にはなれないこと、人生そのものが不幸に彩られていることを様々な角度からこれでもかと書き綴った本である。

私はこの考え方に深く共感する。(少なくとも私の)人生は徹底的に不幸である。

今日の仕事の最中、「なんて俺は不幸なんだ」「こんな職場やめてしまいたい」「こんなことをしたくない」「こんな短い時間内にこんな無理難題を吹っかけられても困る」「こんなことできるわけないじゃないか」「経営者は一体何を考えているんだ」・・など、ありとあらゆる負の感情が私の心の中を渦巻いていた。

そして最終的に「今日こそ、仕事が終わったら死んでしまおう」という結論に至りかかった。

でも、仕事が終わってから死にたくなくなり、今に至るのである。

なぜ、人生がこんなに不幸なのか私にはわからない。と言って幸福な気分にひたることで不幸をごまかしたくもない。真面目に人生を生きていると絶対に不幸という壁にぶち当たる。

まず仕事が不幸への第一歩である。仕事の最中に感じるどうしようもないほどのイライラ、納得できない感情、度重なる理不尽なこと、人間関係のストレスなどで精神がずたずたになるほど切り裂かれる。

しかし、この不幸を心の底から味わい尽くし不幸の泥沼を這いずり回らなければ得られないものもある。それは達成感と言い換えていいかもしれない。

自分の中の不幸と徹底的に格闘すること、理不尽と格闘すること、ごまかしなく見つめること、それらによって心はかき乱され、不幸な気分がさらに増していく。

もう死んでしまえばいいと思うほど不幸な気分になる。それが重要なのだ。

よく考えてみると、人生は徹底的に不幸なものなのだ。どの人のどんな人生も必ず不幸になるように設計されている。

幸福とは概念そのものである。確かに自分をごまかして真実を見ないようにしたり、ある種の病気にかかれば一時的に幸福になれるかもしれない。

しかし、それが何だと言うのだろう。

私はそういう人を見ても幸福だとは思えないのだ。

不幸の泥沼の中で這いずり回って苦しんでいる人こそ正しいと言えるのだ。

それが本来的な人間の姿である。

そう考えるとこの不幸な人生も決して捨てたものではないと思えるようになってきた。

この不幸な人生を決して捨て去ってはならない。