人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

尊厳死できる環境・・それは必要だと思う

ブリタニー・メイナードさんというアメリカ人女性が先日、自ら薬を飲んで尊厳死を実行したことで話題になったがこれは大変素晴らしいことだと思っている。

死ぬ権利・・それは誰にでもあるもの(あるべきもの)だと私は信じて疑わない。

人間は皆、勝手に「この自分」に産まれて来る。産まれて来る人間、環境、時代など何一つ自分で(生前に)選ぶことはできない。

いわば勝手に産まれさせられこの世界の「いま、ここ」に投げ込まれてしまうわけだ。

これを避けることはできない。そして生きている間は絶えず、様々なことに苦しみ喘ぎ、悩み、痛み、最後は死ななければならない。

この絶叫したくなる罰ゲームとも呼ぶべく環境の中に人間が堂々と「尊厳」と呼んでも差し支えないものがあるとするのならば、私はそれは「死」だと思う。

死ぬ時期や方法を自らの意思で決定することができるのならそれこそまさに人間の持つ尊厳だと思う。

誰しも安らかに苦しまずに痛まずに死にたいと願っていると思う。

あらゆる死の中で最も苦痛を与える自殺方法の1つと言われる焼身自殺をする人には必ずメッセージがあると言う。

焼身自殺も自殺であるから一応、自ら選択してその方法で死を選んだと言え、自業自得だと考えることもできるのだが、その人が特に悩んだり苦しんだり何かを強く訴えたかったり(あるいは精神的な病気だったり)することがないのにわざわざ最も苦しい焼身自殺を選ぶことなど考えられない。

つまり、人生に痛み苦しんでもうどうにもならなくなったからこそそういう方法で最後を迎えざるを得なかったのであり、逆に考えれば人間としての「尊厳」が全くないがしろにされてきた人生だったからこそそれをメッセージとして伝えたかったのだと考えることもできる。

それだけ人間にとって「尊厳」とは大事なものなのだ。

そして、それだけ大事なものなのにどういうわけか、「尊厳」を守って生きることはとてつもなく過酷なことなのである。

かつてアメリカに奴隷制度があった頃などは、本当に人間の「尊厳」などまるで考えられないほどの(奴隷に対する)ひどい扱いがまかり通っていたのだ。

イラストが残っているのでそれを見るとよくわかるのだが奴隷船に奴隷が手や足を鎖でつながれた状態で身動き取れないほどギュウギュウに詰め込まれ糞便は垂れ流し、弱ったり、病気になったり、死に掛かったりした奴隷は船から海に放り投げていたそうだ。

自分で何かを選ぶなんて考えられないような状況である。

今や、アメリカも大先進国になり制度としての差別はなくなり、皆が産まれながらに平等に自由な選択ができるようになり、「死」ですら自分で選ぶことができるようになってきている。

これは大きな進歩だと思う。

勝手に産まれさせられ、散々自分に振り回されてきたのだ、最後くらい楽に逝きたい・・私は心の底からそう思っている。

尊厳死して何が悪い??と思う。

病気で余命数ヶ月とか宣告されたり、痛んだり苦しんだりすることがはっきりしているような地獄の病気などに関わらず万人に尊厳死を認めてほしいと思っている。

ある一定の年数を超えたら手に入る選挙権のように安楽な死を選ぶ権利を認めてほしいと思っている。

その権利を使うか使わないかは各自の自由である。

むしろ、いつでも安楽に死ねるのだとわかっているのなら、もっと頑張って最後まで生きてみようかと勇気が持てるかもしれない。

死がまるで見えないからこそ、不安になり、ますます死にたくなるのだ。

ということで、アメリカやスイス、オランダなどの先進国では尊厳死が認められるようになっているが日本はどうなのか?

アメリカが州によって法律が違うように都道府県などの自治体でそうしたことを認める特色のある自治体があったりしたらとても素晴らしいし、面白いと思う。

ただ、日本は集団主義の国だから絶対にそうならないと思う。

青森県長崎県島根県では尊厳死を認めるがその他の県では認められていないとか想像することすらほとんど不可能である。

同様に北海道と静岡県と京都府では同性愛者同士の結婚を認めるが他の県では認めないとかも考えられない。

日本人はそういう発想が基本的に嫌いだし、苦手である。

何かそういうことに根本的に違和感を感じてしまう人種である。

ほとんど単一民族で構成された国家だから多様なあり方を認めることが難しい国なのだ。

でも・・本当に自由に人生(最初から最後まで)を選ぶ権利がある国ならその位のことに取り組んでもいいのではないかと思っている。

まあ、絶対にそうならないと思うが。

私は、死にたい。

でも、まだ死にたくない。

よって、もう少し生きてみることにしたのだ。