人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

最初のカンボジア訪問で見た悲惨な光景

カンボジアには過去3回訪れたことがある。

1回目のカンボジア訪問の時に見た光景は今でも頭を焼きついて離れない。

それは2008年のことだから今からもう7年も前のことだ。

カンボジアシェムリアップという街に入って繁華街のオープンエアの(路上にある)レストランで食べていたらストリートチルドレンの集団が物乞いをしたり、遊んだりしていた。

私はこの時人生で初めてストリートチルドレンを見たのだった。

その後、フィリピンを訪れてストリートチルドレンを嫌と言うほど見ることになるのだが、所謂子供たちだけで集まって生活しているのを見たのは初めてであった。

インドに行ったときに物乞いや乞食や路上生活者はこれでもかというほど見たのだが、その時はいわゆるストリートチルドレンという形で子供たちだけで生活している姿ではなく、親と子供が路上生活をしている光景しか目にしなかった。

だから、カンボジアに初めて行った時に小さな子供たちが普通に物乞いして路上で遊んで路上に寝ている姿を見たときは心の底から驚いたのである。

その後、3年後、4年後と計3回のカンボジア訪問をしたが、ストリートチルドレンや路上生活者や物乞いは激減していた。

今はほとんどカンボジアから姿を消したのではないだろうか?

その位、カンボジアには援助が入ったり、施設が出来たり、色々な変化が訪れたということなのではないだろうか?

もちろん、私がたまたま見なかっただけで本当はまだ水面下にたくさんいたのかもしれないし、今でもいるのかもしれない。

フィリピンのマニラなんかに行くとカンボジアなど比べ物にならないほど多くのストリートチルドレンがいてぶったまげるが、これはまた後の話とする。

さて、2008年のカンボジア訪問で見たストリートチルドレン以外にも非常に衝撃的な光景は手や足がない物乞いや路上生活者の姿である。

シェムリアップにも首都のプノンペンでもその途中のバスの休憩所でもキリングフィールドと呼ばれるポルポト派が大虐殺を行った場所(今は慰霊地となっている)などでも結構手や足を失って片手、片足で松葉杖をついた物乞いを見たのだ。

彼らは皆、地雷で手足を失ったのである。

恐ろしいことにカンボジア国内にはまだまだ未撤去の地雷がたくさんあって、やたらに舗装されていない草むらなどを歩くなと言われるし、地雷がありそうな場所には骸骨マークの立ち入り禁止の札が立てられていたりする。

ベトナム戦争やらポルポト派の内戦やらでたくさん地雷が撒かれていて遊んでいる最中や農作業の最中などに触ってしまったり、踏んでしまったりして命を落としたり手足を失ったりする人が後を立たない国なのである。

もともとカンボジアは世界最貧国の1つであり、大変貧しい国であるからそうした手足を失った人達というのは余計に仕事にありつけず、やむを得ず物乞いをしている場合が多いのだ。

今は海外の援助団体などが入ったり、施設が作られたりしてそうした犠牲者の方も何かしらの仕事をしていることがあるから人目につくところで見かけることは減ったのだが、2008年当時はまだまだたくさんいてそこら中で見かけたのである。

彼らの悲惨さには目も当てられないほどであった。

5体満足の人が物乞いをしているのを見るのも気が引けるのに、地雷で手足が吹き飛んで、ボロボロの洋服を着て、悲惨な表情で松葉杖を突きながら寄ってきて帽子を差し出す物乞いの光景と言うのはとても言葉では表現できない哀しさがあった。

この世の地獄を全て背負ったような表情をしているのである。

なんだか、自分が健康に生きているのが後ろめたくなってくる迫力があるのだ。

地雷でも爆弾でも爆撃でもなんでもそうなのだがやはり、戦争はいけないと思う。

どんな理由であってもできれば戦争はしない方が良い。

ごちゃごちゃ考えずにもっと簡単に考えてみると例えばカンボジアの手足を失った物乞いが自分だと考えてみれば良い。

自分は5体満足で健康に農作業などをしていたら急に内戦で埋められた地雷によって足を一本吹き飛ばされたことを想像してみよう。

その瞬間から一気に人生が地獄を迎えることになる。

仕事はなくなり、痛みにのた打ち回り、周りからは白い目で見られ、寿命は縮み、将来に悲観して絶望し自殺を考えるようになるだろう。

手や指が吹き飛ばされたとしてもやはり同じである。

その瞬間から絶望的な状況に陥ることは目に見えている。

日本は平和で豊かな国だからそんなことはないのかもしれないがもしそれがどこかの国のどこかの人であってもそれがかけがえのない自分だとしたらやはり同じである。

地雷を踏んだという想定じゃなくても爆弾で身体を吹き飛ばされても爆撃に遭っても、運悪く銃弾の流れ弾が当たったとしても同じである。

その瞬間から絶望と苦悩の人生が始まる。

戦争とは一見他人事のようで他人事ではないのだ。

わずかな可能性が残されている限り、戦闘行為が起きないように戦争を避けるようにしていくべきなのだ。

たった一人の人間の手や足が吹き飛ばされてしまったということは(自分に置き換えると)想像を絶するほど凄く悲惨なことである。

人間とは非常に弱い生き物である。

手や足や指が一本吹き飛ばされなくても例えば、毎日職場に通って、誰かから挨拶を無視されただけでも精神的にダメージを受けるくらいもろい存在なのである。

もちろん、誰かから仕事上のことで激しく批難されればショックで落ち込むのは皆同じだろう。

それでも精神的なダメージだけで済んでいればまだなんとか生きていくことができるかもしれないが、さらにプラスして戦争に巻き込まれて手や足や指を吹き飛ばされたなんてことになったら最悪な状況である。

そして、そういう最悪な状況の中で絶望しながら、痛みに苦しみながら、耐えられない理不尽に発狂しそうになりながら生きている人達が世界にはたくさんいるのだ。

今の日本には徐々にそうした戦争の悲惨さを知る人が減ってしまい、実感として沸かなくなってしまっている。

他国のことなんかどうでもいい、自分達を守るためならどんなことをしても許されるという主張がまかり通るようになっている。

しかし、これは大変に思いやりを欠いている。

人間の中で最も大切しなければいけないことは思いやりだと思う。

他人を思いやる心である。

こんなことをしたら痛いんじゃないか?苦しいんじゃないか?つらいんじゃないか?と思う心である。

日本人だろうが中国人だろうが韓国人だろうが北朝鮮人だろうが皆、同じ人間である。

戦場で銃で撃たれれば痛いし、地雷で手足を吹き飛ばされれば苦しい。

レイプされたら痛みと屈辱で自殺したくもなるだろう。

人間は皆、不完全だからこそ相手を思いやって、できるだけ傷つけないように配慮すべきなのだ。

武器で傷つけられなくても普段の生活で充分に傷ついているからである。

先に言った様に職場で挨拶を無視されたり、仕事上で批難されたりするだけでも落ち込んでダメージを食らうくらい人間は弱くできているのだ。

重ねて身体にダメージを受けたら立ち直れないくらい苦しいだろう。

他人は自分であり、自分は他人でもあるということを前提に思いやりを持たなければいけない。

自分が相手に思いやりの心を持っていることが伝われば相手の戦意も喪失して攻撃しないかもしれない。

逆に相手が自分に思いやりの心を持っていることが伝われば自分も相手に対する戦意が喪失するかもしれない。

カンボジアで見た手足を失った物乞いの光景は衝撃的だった。

内戦で撒かれた地雷による被災で人生を狂わされた人達。

手足が吹き飛ぶことで何もかもあきらめなければいけなくなった人達。

彼らは言葉では訴えてこなかったが身体全体でメッセージを発していたように思う。

「これが戦争なんだ」と。