人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

東京より

先ほど、新宿より中野に移動。

今日は中野に泊まります。

待ちに待った東京旅行。

と言っても1ヶ月ぶりの東京です。

毎月1回は必ず東京に来ることが楽しみで生きていますから定例行事と言ってもいいですね。

つい2週間程前は京都にいましたから本当に旅ばかりしている人生です。

自由に旅ができる環境で生活できることに感謝の毎日です。

今の職場やはり最高に素晴らしいと言わざるを得ません。

自由だし、個人の裁量が広く認められているし、束縛が弱いし、給料はそこそこだし、休みもそこそこあるし、長期休暇取れるし、人間関係良いし、変な奴や嫌な奴はいないし(と言っても当然ながら微妙な人はいる)、業務が楽だし、いいことづくしかもしれません。

さて、2週間前の京都旅行で日本の和の素晴らしさを実感いたしました。

これからも京都は定期的に通わなければいけない大切な場所です。

しかし、東京はそれ以上に大好きな場所。

私が最も心落ち着く洗練された場所。

ここで大学4年間を過ごしたことは本当に大きかったと思います。

先ほどまで中野のアーケード街をぷらぷら歩きながら私は何を考えていたか?

それは「感謝の重要性」であります。

人間が生きていくことは楽なことではありません。

これは常識でしょう。

しかし、楽ではないながらも自分にとっては楽なことがたくさんあります。

歩くこと、呼吸をすること、排泄をすること、食事をすること、飲み物を飲むこと、缶ジュースを買うこと、そして旅行をすること。

これら全ては当たり前のようでいて当たり前ではないのです。

自分にとって簡単にできることは他の人にとって簡単でないことがいくらでもあるのです。

足が不自由で思うように歩けなかったり、半身不随で車椅子生活を強いられている方には歩くことは非常に困難なことです。

人工呼吸器をつけて生活している人にとって呼吸することは大変なことです。

高齢で自力で排泄することができずオムツをつけている方にとっては排泄は毎回苦痛と不快感を伴うことでしょう。

自力で食事が摂れず誰かに食べさせてもらわなければいけない人や摂食障害を抱えている人には食べるという行為に毎回精神的苦痛を伴うことでしょう。

嚥下障害を抱えている人にはジュースをごくごく飲むことすら困難なはずです。

缶ジュース1本買うことすらできないほどお金がなくて困っている人は世界中にはたくさんいます。

とは言っても、自動販売機がそこら中にある国は日本以外にほとんどないですが。

旅をしたくてもできない人はそれこそ大勢います。

何らかの身体障害を抱えていて自力で移動できず介助者を必要とする人にとって移動自体が困難でしょうし、仕事が忙しすぎてとても旅行に出られない人も大勢います。

このように私にとっては当たり前のこと一つ一つは他の人にとって当たり前でない場合はいくらでもあることを想像すれば感謝すべきことが沸き上がってきます。

私は苦しさを抱えながらも大変に恵まれており幸せな存在であると言わざるを得ません。

何よりも旅ができることが最も幸せです。

旅は私にかけがえのない大きなモノをもたらしてくれました。

例えばインドという日本とはあらゆる意味で真逆な国に行きますと実に様々な不便や不自由に出くわしますし、日本の常識では考えられないようなことが目の前で展開されていますし、日本ではとても想像できない貧困の光景を目の当たりにすることができます。

インドに行くと日本の有難味が身に染みてわかります。

日本の美しい街並み、ゴミやうんこがほとんど落ちていない綺麗な道路に感動します。

こうしたことを身をもって体験できたことだけでも私の人生は幸せだったかもしれない。

インドのニューデリー駅前の光景は今でも忘れられない。

駅前の広場に牛が何頭も寝ていたり、寛いだりしている。

そしてその横に生身の人間が毛布一枚くるまって寝ている。

牛と人間が同じレベルで生活しているのです。

しかも、インドの路上生活者の身なりが汚いこと。

日本のホームレスはほとんど靴を履いている分ましですが、インドの路上生活者のほとんどは靴さえ買えないほど貧しいですから裸足です。

あんなとんでもない状況で飢えに耐え、残飯を漁って、ゴミを拾ってお金に代えながらなんとか生きている人がたくさんいるのです。

彼らにとって缶ジュースを買う金があったら食べ物を買うでしょう。

毎日当たり前のように缶コーヒーを買う贅沢なんて夢のまた夢。

そうした絶望的な貧困生活を送っている人達のことを考えるとなんと自分は恵まれているかと思います。

そうした人達のためにも私はお金をケチりたくない。

これは絶対的な価値観として自分の中に君臨しています。

とにかくケチな生活をして長生きしたくない。

私がこうして自由で好きなことをやって旅行などを楽しんでこられたのも結局のところケチらなかったからだと思います。

もちろん、新車を買ったり、家を買ったり、ブランドを買ったり、高級ホテルに泊まったり、風俗に行ったり、家を建てたりの贅沢とはまるで無縁の生活です。

そういう意味ではけちをしているかもしれません。

さらに彼女を作ったり結婚して家庭を作ったり、子供をもったりもしていません。

それらはすべて自分の価値観からして必要でなかったし、これからも必要ないでしょうが、そういうところでお金を使わなかったからこそ今の自由で贅沢な豊かな生活があるのが現実です。

これは正負の法則でしょう。

何かを手に入れたければ何かを我慢しなければいけないのです。

彼女もほしい、結婚したい、子供もほしい、でも旅もしたい、自由気ままに気楽に贅沢に生きたいと思ってもそうは問屋がおろしません。

借金でもするか誰かからお金が貢がれている状況なら話は別でしょうがそうではない一般的な人には無理な話です。

自分のいただいた多くも少なくもない普通の給料の中から全てを捻出していく生活をするのであれば絶対にどこかは削らなければいけないはず。

しかし、今の私は幸せです。

異性や友人との交遊が自分にとって大切なことであるならそれを優先すればいいし、そこにお金を使えばいい。

自分の価値観に合った範囲で最大限時間とお金を有効に使えばいいのですから。

旅が嫌いな人がいくら旅にお金を使ったところでまるで無意味でしょう。

一人でいるのが嫌いな人が一人旅にでたところで何も楽しくないし、周りの目が気になるだけで得るものは少ないはずです。

お金は天下の回りもの。

私はケチな人が嫌いです。

ケチな人は何かを勘違いしている場合がある。

何かしたいことがあるのにそれをしないでケチって得した気分になって人生を終えたくない。

お金はできるだけ使うべきだと思う。

なぜなら人生に意味はないとおもうから。

自分が生きていても死んでいても実はあまり変わらないのです。

だからこそ自分がいつ死んでもいいようにお金を使ってやりたいことをやる必要があります。

マザーテレサはお金を全然ためない人だった。

全部他人のために貧しい人のために使ってしまったから。

寄付金はすべて貧しい人のために使い、自分は質素な生活をしていたというところが素晴らしい。

彼女を尊敬すべきはお金をプールしなかったところです。

お金は使ってこそ価値があるということを知っていた。

さて、今から全てを忘れて一人で飲みに行きます。

ああ、なんて幸福なんだろう。