人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

大学時代のぼろアパート

大学時代に東京の片隅にあるぼろいアパートで4年間一人暮らしをしていた。

先日、東京を旅した時に最寄り駅周辺を久しぶりに歩いたのだがついでに大学時代に住んでいたぼろアパートを訪れた。

私の大学時代というのはこのぼろアパートでの生活に集約されている。

まさにこのぼろアパートでの生活こそ「修行」と呼べる代物だった。

このアパートは外見的に見ると意外と真新しい感じがして印象は悪くない。

ところが住んでみるととんでもない。

まず、造りがしょぼい。

木造で壁板が薄くて音がやたらに響き、隙間風がひどく、冬は耐えられない寒さだ。

昼夜問わずアパート住人のセックスが始まると喘ぎ声と軋む音がアパート全体に響き渡り、阿鼻叫喚の地獄絵図になるのだ。

喘ぎ声の大きさと床の軋み具合でセックスの進行具合がどの程度なのか明確に把握できるほどである。

大学が休みだったり、さぼったりしてアパートで寝ているときに突如、アパート住人の喘ぎ声で目が覚めることがある。

私は、あまりにもアパート内の様々な騒音や迷惑行為と思われるものに耐えられなくなり、発狂しそうになったため、騒音発生源の部屋に張り紙をしたこともあった。

詳しい文面は忘れたが「住人の皆が迷惑しています」というようなことをパソコンで打ってドアの前に張っておいた。

その後、少ししてその迷惑住人は出て行ったがとにかく入れ替わりの激しいアパートで入ってきたと思ったら数か月程度で出ていく人が多かった。

私はなぜか出て行かなかった。

毎日そこで生活することが耐え難き苦痛であったのに一人耐え忍んでいたのである。

今思うとなぜもっと早く退居してもっと安くてまもとなアパートなどに引っ越さなかったのだろうと思う。

これ以上ないほどにコストパフォーマンスの悪いぼろアパートだった。

あんな最低最悪なアパートで東京の外れにあって交通至便どころか不便で最寄り駅から遠くて安っぽいところに我慢して住む理由などなかったのだ。

あのアパートに住んでいる限り、日本国憲法が保障する「健康で文化的な最低限度な生活」をすることは不可能である。

とにかく外見だけでは絶対にわからないひどいアパートであったことは間違いない。

しかし、あの地獄の原体験があるからこそ今は幸せで快適に感じられるのも確かである。

私は海外一人旅で安眠できなかったことがただの一度もない。

もちろん国内旅行でも全くない。

海外では壁の薄い安宿に泊まることが多いし、国内でもドミトリー形式の相部屋に泊まるのがほとんどであるが周囲が気になって眠れなかったことがないのだ。

それは、いくつかの理由があると思うが学生時代にとんでもなくひどい住環境の中で4年間耐えて一人暮らしをしたこともあるように思う。

大げさな言い方かもしれないが海外のどんな安宿もあのぼろアパートよりはマシな気がしてくる。

美輪明宏さんが言うように地球には正負の法則というものがあって、過去に負の体験をするとそれが将来、正に変わる時がくるのだ。

逆もまた真なりである。

幼少時代から恵まれた環境で豊かな生活しかしたことがないとそれが当たり前だと勘違いし、傲慢で我儘な人間になる。

つい最近、正負の法則が現実化する場面に出くわした。

知人の大変我儘で傲慢な人間に罰が当たったのだ。

ちょっとでも自分が我慢できなかったり納得できなかったり思い通りにならなかったりするとすぐに暴れてしまうような我儘な人間が連続的に不幸に見舞われ再起不能の状態になってしまったのである。

周囲の人間は自業自得だという見解である。

地球というところは正があれば負があり、負があれば正があるところだ。

自分の思い通りにいかないからと怒ってわめいて周りに当たり散らしているような人間はその時はよくても必ず将来的に自らの業で墓穴を掘って自分で自分を地獄に落とすはめになるのである。

前の職場のドケチな経営者もこの正負の法則が当てはまっている典型例であった。

金があるにも関わらずいつもいつも金にけちけちしていて必要以上に社員に負担をかけさせて無理をさせて自分は楽することを考えている人であった。

社員に負担と無理を強いているのは明白なのに人件費をけちり人を増やして負担を減らすような努力はしなかったから余計に人が辞めていく悪循環になっていた。

そしてその経営者自身が病気で苦しんでいた。

それも完全な自業自得且つ因果応報の病気である。

いつもいつも他人を悪く言い、馬鹿にし、こき下ろし、偉そうな横柄な態度をしてふんぞり返っていた。

しかし、態度とは裏腹に他人(社員)を信じることができず疑心暗鬼に陥り、猜疑心に苛まれ、裏切られるのではないかと不安になり、社員の一挙手一投足に目を光らせていた。

その結果常に対人ストレスに悩まされてイライラし、怒りを爆発させて社員を不幸にしていた。

その経営者のもとで働いた経験から実に多くのことを学ばせてもらった。

絶対にこういう人になってはいけないと強く心に誓うことができたし、こういう人の傍に寄るとろくなことはないということがわかった。

先に述べた罰があたった知人せよ、前の職場の経営者にせよ自業自得で不幸になった典型例である。

なぜ不幸になったかというと他人を不幸にさせた結果によりその因果が回り回って自分に跳ね返ってきて自分が不幸になったわけだ。

恐らく二人ともろくな死に方はしないと思う。

他人という存在を考えるときに最も大事なことは相手の人権の尊重という概念である。

他人には自分と同じだけの尊厳を認め人権を尊重して思いやらなければいけない。

しかし、時々他人の人権を踏みにじっても自分が気持ちよく生きられれば良いと享楽的に考えて他人を支配的に扱ってプライドを満たしている人がいる。

イスラム国の兵士などはまさにその典型例であろう。

彼らは奴隷制を肯定し、ヤジディー教などの異教徒を弾圧しとらえて奴隷にして売ったり買ったりしているのだがそこに基本的人権の概念はないのだ。

ここで問題なのは他人を自分に置き換えるという想像力である。

他人と自分が同じだけの人権を持っていると仮定するのなら絶対に良心がこれをとがめるはずである。

自分がされて嫌だと思うことは他人にできないはずなのだ。

しかし、彼らは神の名のもとに平気でこういうことをしてしまう。

恐らく彼らにも天罰がくだる日がくる。

天罰というのは不思議なものである時一気にやってくるのだ。

徐々に来るというよりもある時、一度に立て続けにくだることが多い。

一つの不幸に二つ、三つの不幸が重なり再起不能なほど叩きのめされる場合が多いのだ。

そうなった時に自己を反省して立ち直れる人間は負を正に変えて立派になれるのだが自己を反省することもできないほど自己愛に溺れてしまっているともう再起不能だ。

人生とは苦しい修行である。

この苦しい修行に耐えて自己を高めようとせずに他人にばかり修行を押し付けて逃げてばかりいると必ずそれが跳ね返ってくる。

そういう意味で神様は平等に見ているのではないかと思う。

修行から逃れようとせず耐えなければいけない。