人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

「ニートの歩き方」を再読する

私が好きな本の中にphaさんが書いた「ニートの歩き方」という本がある。

このphaさんと言う人は京都大学を卒業して一般企業に就職したが会社員生活に馴染めず、退職してフラフラとニートみたいな生活をしていたという経歴を持つ方である。

今は事実上ニートを卒業したみたいで色々な仕事や活動に精を出しているようだけど、基本的にはだらだらするのが好きで、面倒くさいと思ったりすることはできるだけ避けることを信条とするように生きており、一般の会社で働く真面目な社会人とは距離を置いた生活をしている人である。

私はこの本の内容がほぼすべて共感できる範囲内であったが、特に以下の文章にはとりわけ共感した。

「仕事なんて命に比べたらどうでもいい。人間は仕事のために生きているわけじゃないし、仕事なんて人生を豊かにするための1つの手段にすぎないんだから。~中略~人生なんて死ぬまでの間をなんとかやり過ごせればそれでいい」

本当にその通りだと共感する。

彼の中には一貫して「あまり働きたくない」とする一見すると怠惰な思いが溢れているがそれでいいじゃないかと心底思うのだ。

私も以前の職場は大変に忙しくてサービス前業、サービス残業など当たり前にこなし、休憩時間も削って凄く真面目に働いていた。

しかし、途中から明らかにはっきりと「これは私のやりたいことではない」と感じ始めた。

なんでそんなに自己犠牲して働かなければならないのか全然わからなかった。

人間の人生なんて生まれてきて生きて死んでいくだけである。

その間は本当に過ぎてみればあっという間だし自分のやりたいことも色々と出てくる。

そんななか、ただひたすら会社を守るためや職場や社会に貢献するために一心不乱に働き続けることに意味が感じられなくなっていった。

それは私の価値観がそうであったというだけであり、そうしたい人は好きなだけそうすればいいのだ。

しかし、会社や職場というところにははっきりとした空気や文化や同調圧みたいなものがありそれに抗うことはかなり疲れるし結局無理をしても生き残れなくなってくる。

日本社会全体が働くことに対しての強い価値観を持っている社会だからある程度どこの職場にいっても似たような空気はあるにせよ、もっとゆるい職場はあるので転職することで環境改善を図った方がいいと思い決断したのだった。

ただこれはざっくりとした全体論であり実際にはそうした忙しい職場の中にもさぼって働かない奴は一定数いて真面目な人はそういう人達のフォローやお尻拭きをさせられることになる。

そうした自己犠牲による他社員のフォローにも疲れ切ってしまった。

もっとゆるい職場であればゆとりがあるため他人のフォローをしてもそれほどイライラさせられないであろう。

これは確かに現実であった。

とにかくphaさんの考え方に共感したのでこの本はそれ以来私にとって立ち返るべきバイブル的な本となっている。

彼が本書で言っているように人生には何の意味もないと私も思う。

一応、人生の意味は「修行して自分を高めること」だと思っているがそれも自分がそう思いたいからそう思っているだけで本当は疑わしい考え方だ。

そう考えるともっとゆるく適当に生きても全然構わないと思う。

人生の意味は働くことではないと思うし、働くことによりお金を稼ぎ、それを将来のために節約してためたり投資したりすることでもないと思う。

唯一意味がありそうだなと思うことは生き延びることくらいだと思うがそれもたかが数十年の間の中で伸び縮みするだけなので微々たるものだ。

先のことなど考えなくても生きていけるし、どんなに先のことを考えて準備をしていても死ぬときは死ぬだろう。

それは、不慮の事故や病気と言う場合もあるし寿命という場合もあろう。

とにかく人間には死と言う絶対的な限界が常に迫っている状態で長くても残り数十年程度のあっという間の人生を生きているだけなのだ。

さて、話は変わるが自民党憲法改正草案の中に面白い条項が色々と入っているようだ。

「家族は互いに助け合わなければいけない」というような内容の家族仲良くという文面がその一つである。

これってよく考えると凄く面白い考え方だと思っている。

家族が助け合って仲良くすべきだと考えるのは個人の自由である。

私もそうすべき(家族仲良くすべき)だと思う。

確かに家族が仲が良いといいことがたくさんある。

理想としては夫婦仲良く離婚しないで老後を過ごせるのがいいだろう。

しかし、これを憲法に盛り込もうとすることには物凄く違和感がある。

家族仲良くというのは簡単に言うと道徳である。

道徳というのは多種多様であり、それこそ人の数だけあるものだ。

例えば、「早起きしなさい」「丁寧な言葉を使いなさい」「夜はなるべく早めに寝なさい」「友達を大切にしなさい」「できるだけ辞めずに長く同じ職場で働きなさい」「他人の悪口を言うのをやめなさい」「時間を守りなさい」「挨拶をしっかり行いなさい」「周りを不快にさせないように明るく笑顔で振るまいなさい」とか道徳に関する命令文は色々と思いつくことができる。

しかし、これは法律にはなり得ない。

なぜなら価値観の問題に関わるからである。

私自身は家族仲が良かったので「家族仲良くしなさい」と言われても煩いことを言うなと思うくらいで別にそれほど憤りを感じない。

しかし、家族仲が最悪だったり、一家離散して悲惨な目に合っていたり、パートナーから暴力を受けていて早く離婚をしたいと思っている人からしたら、そう感じるのは困難だろう。

確かに家族仲良くすべきなのだが、現実的にはそううまくいく場合ばかりとは限らない。

価値観も考え方も変わるし、意見が食い違ったり、どうにも相手が嫌になって離婚を考えたりする場合もあるだろう。

その時に憲法の中に「家族仲良く助け合うべし」という条項が入っていてこれを補完するための「離婚禁止法」みたいなものができて離婚することに罰則が発生するような社会はまっとうな社会なのか?と思うのだ。

これは、「家族仲良くする」以外の他の例...「早起きしなさい」「丁寧語を使いなさい」「友達を大切にしなさい」などの道徳的事柄すべてに当てはまることである。

道徳観というのは人それぞれであるがそれを他人に強制することは基本的にナンセンスだというコンセンンサスのある社会に我々は住んでいる。

それを国家が統一して課していこうという方向に流れているのが現状なのだ。

つまりこれからは道徳観も国家が決める時代になろうとしているのである。

国家が「早起きは三文の徳だから早起きしなければならない」と決めたら老いも若きも皆、夜更かしせずに5:00位に起きて活動しなければいけなくなるのかもしれない。

あり得ないことかもしれないが、こういう妄想を繰り広げていくと実に面白いことになる。

北朝鮮みたいな社会であるが法律の中に入っていて罰則がある以上守らなければいけなくなるのだろう。

道徳と言っても多くの人が共感し納得できるものならまだいいが、多数の人がかなり違和感を持つような道徳の場合は余計に息苦しい状態が想定できて面白い。

例えば「他人に会ったら必ず挨拶をしなさい」という条文ができたとしたら道路を少し歩くのが物凄く疲れるようになるだろう。

挨拶を忘れたことで罰則が発生する可能性があるのだ。

常に四方八方を注意してキョロキョロし挨拶をし忘れないように注意しなければいけないだろう。

イスラム国の法律も実に不気味なものがたくさんある。

その中に「男は髭を剃ってはいけない」というのがあって、イスラム国の男性は皆髭がもじゃもじゃだがあれは大変に気持ち悪いものだ

イスラム国の兵士を捕まえて全員一斉に髭剃りをしてやりたくなることすらあるくらい、見ていてうざったい。

髭なんて伸ばしてようが短くカットしていようが個人の自由じゃないかと思うがああした変な国ではそれが法律なのだ。

イランなんかは厳格なムスリムの国だから男に性欲をかきたてさせないように女性はスカーフを巻いて髪の毛を隠さなければいけないけどあれも女性からしたら迷惑なものだと思う。

別に隠したい人だけ隠せばいいのだ。なぜそれを国家によって統制されなければいけないのだろう。

日本も徐々に自由な民主主義を捨てて統制のとれた美しい国を目指していくのだろうか?

そういうがんじがらめの状態が大好きなストイックというかドSな人からしたら楽しく過ごしやすい社会だと思うが多数の人にとっては抑圧が増えて自由がなくなり息苦しいだけの気がする。

本当にこの方向で良いのかについて各自が考えて行動していく必要があるだろう。

何も言わなければ従っているとみなされかねない雰囲気のただ中に我々はいるのだし。

このままいくと道徳と言うのは多種多様であり、各個人で決めるものではなく、国家が決めて守らせるべきものとなるかもしれない。

想像したり、妄想したりするのは面白いがなかなか息をしづらそうな感じだ。