人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

生きることはある意味拷問である

「拷問」の意味を国語辞典で調べると・・「容疑者に肉体的苦痛を与えて、犯罪を白状させること」となっている。

その意味で言えば、ただ普通に生きているだけでは拷問状態にあるとはとても言えまい。

しかし、比喩的な言い方として使うと「拷問」に近い苦痛だと感じるときがある。

とにかく、生きていることが大変に苦しい時がある。

いや、大変に苦しい時があるというよりも常に苦しい状態を何かしたり考えたりしながらごまかしているだけなのかもしれない。

私の場合、自分の身体に苦しめられている。

自分の身体が思うようにいかず悩んでいる。

身体に深刻な病気を抱えていたり健康に問題を抱えていたりする人からすれば私の身体の状態は「それくらいたいしたことない」と思う程度なのかもしれないが、私にとってみると時には「拷問」に感じるほど苦痛に感じる時があるのだ。

これは、もう私に産まれてきた以上、死ぬ以外では解決できない問題である。

「もうやめた」と言って人生を降りるわけにもいかず、洋服のように身体を脱ぎ捨てて違う身体になることもできない。

ひたすらこの憎き身体を耐えるしかないのだ。

私には選択肢はない。

ただひたすら耐えることだ。

この状態がある意味拷問に感じる時があるのだ。

人それぞれ色々な悩みを抱えて生きているのだろう。

先日、とある方からいただいたコメントはなかなか真理をついていて共感させられた。

「一見いいことを言ってそうだが、ただの自己中」だとのことである。

これは、確かにその通りでどうにも反論ができなかった。

私は本当に我儘だし、自己中心的な人間であるがそれを文章でごまかそうとしているところが実際にあるのだ。

このコメントをくれた方は良いことを言ってくれたと思う。

私は自分で自分のことを心の底から自己中な人間だと思っていて実際にその通りなのだが、自己中であることによりメリットもある。

それは、自己中の人の気持ちがよくわかるという端的な事実である。

自己中の人間というのはなぜ自己中なのか?と考えてみるとそれなりの理由はあろうが基本的には心や身体に余裕がない状態で生きているという現実がある。

なぜ、自己中になってしまうのか?周りに配慮して自分を押し殺すことができないのか?ということを考えると結局のところ自分を守るだけでいっぱいいっぱいになっているという現実がある。

自分に余裕やゆとりがあれば自己中になる必要もない。

私の場合、生まれつき持った先天的な性格というのもあるが、先述した通り身体が実に微妙な状態であることも関係している。

身体からのプレッシャーがあってなかなか他を思いやる余裕までもてないのである。

例えると、早いランニングをしていて息が切れているような状態で余裕がなくて周りの景色がしっかり観察できないような状態と言っていいのかもしれない。

まあ、これは一つの言い訳でありとても正当化できるようなことではないだろう。

一応、健康な状態で生きているわけだから。

しかし、人間が発する言葉や現れる行動の裏には何かしら意味や原因があると思う。

本当に人生をもう一度やり直せと言われても自分をやりたくないと思うことがある。

自分をやるのは面倒くさいことがあまりにも多すぎるのだ。

これは、自分にしかわからないことである。

他の人もそれぞれ自分にしかわからないどうにも表現できないもどかしさや苦痛などがいっぱいあるだろう。

生きることとはそういうことなんだと思う。

この自分に耐えることこそまさに修行である。

結局人生とは我慢と忍耐の連続であり、苦しい状態が当たり前なのだと思う。