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人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

無用の用

何かを頑張っている人間、何かを成し遂げた人間、何かを目に見える形にした人間は一般的に評価され、称賛されることが多い。

確かに私も一般的に凄いことができる人間や能力が高い人間を尊敬する気持ちはある。

しかし、暗くて深い「深海」に潜って探索していくような感じで心の奥深くを探っていくと「人間なんてただ生きているだけだ」という固い岩盤のようなものに突き当たって座礁してしまうのだ。

そうだ・・人間なんてただ生きているだけじゃないか!それで何が悪い!!と叫びたくなる。

リオオリンピックで3連覇を成し遂げたウサイン・ボルトは確かに超人的で凄いし尊敬に値する。

しかし、よく考えてみるとトラックの上をただひたすら誰よりも早く走っているだけである。

それが凄いのは間違いのないことだが地球全体でみれば微々たることだ。

つまり、一人の人間がしていることなんてとてもちっぽけなことなのである。

どんなに仕事を頑張って組織に貢献したとしてもよくよく考えてみるとちょっとしたことを他の人より少し究めたという程度だ。

逆にベッドで寝たきりになりもうじき命を終えるという病人やお年寄りでさえもただ生きているという事実に変わりはないわけでやはり何かしら凄いことをしているのだ。

重度の障害者を生かし続けるのは税金の無駄だし、(社会的に)何の役にも立たないから殺しても良いのだと考えて殺害に及んだ男はどこか間違っている。

日本人は権利として思想の自由を持っているだから何を考えようがその人の自由ではある。

ただ、この男の考えはとても短絡的だと思わざるを得ない。

彼は「無用の用」という言葉を知らなかったようだ。

とりわけ哲学という学問は無用の用だと言われている。

哲学という学問がこの世になくても社会運営上誰も困るわけでないし、何か(社会的な意味で)有益なものを生み出すことも考えにくい。

なぜ働かなければいけないのか?なんて考えずにただ黙々と働き社会に貢献し税金を納めた方が世のため人の為になる気がする。

しかし、それはロボットでもできることだ。

人間という存在は「なぜ?」を問う生き物なのだ。

例えそれが無用だとわかっていても問うてしまうのである。

ということはつまり、無用なことが用をなしていると考えてよいわけだ。

「私の人生はこのままで良いのか?」と多くの人が一度は考えたことだろう。

確かにそんなことを考えずにただひたすら目の前の仕事をこなし、国の為に税金を納めていれば一応社会的な役割を果たしていることにはなる。

しかし、それだけで良いのか?私が私らしく生きる為にどうしたらいいのか?を考えることは私にとって必要なのではないか?という気持ちの火を消せないでいる。

自分に素直になればなるほどそうなってしまう自分がいるのだ。

そしてその自分がどこか可愛くいじらしく感じてしまう自分もいる。

私が思うに人間存在とは究極的な無用の用と呼ぶべき存在であるように思う。

人間がいなくても地球は何の問題もなくまわっていくだろう。

むしろ人間が垂れ流す公害がなくなり、より美しい地球になるかもしれない。

そういう意味で人間は無用な存在なのかもしれない。

しかし、無用だからと言ってただちになくなるべき存在なのだとも思えない。

無用だから必要ないわけではないのだ。

この自分と言う存在もそう考えてよい。

自分が死んでもこの世は問題なく回っていくことだろう。

そういう意味ではこの私は無用な存在かもしれない。

しかし、そうした枠組みを超えてただ生きているということ自体が既に用をなしていると考えることも可能である。

それを他者に拡大すればより事態は鮮明になる。

他者は自分にとって必ずしも必要ない存在かもしれない。

時には邪魔でうっとうしく感じることもある。

しかし、決して無用だからと切り捨てるべき存在でもない。

私も他人もやはり今ここにこうして生きているという事実は共有できるわけでそれだけが大きな輝きを放っていると言ってもいい。

そう考えると社会的に大きな仕事をしようが、無職で無為に生きようが本当はどうでもいい気がしてくる。

人間とはただ生きているだけなのだ。

そして、それは決して無用ではないのだ。

私はそう信じている。