人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

肉体貸与型

昨夜12時前に眠りに就こうと思ったら周囲はいびきの大合唱。安いドミトリールームやカプセルタイプの宿にはこうした光景(騒音?)がつきものである。夏の夜に田園地帯を散歩すると聞こえてくるカエルの鳴き声のような絶え間のない人間のいびきを聞いていてなかなか眠りに就けないなか「所詮、人間もカエルも似たようなものなのかもしれないな」と思う。

よくよく考えてみると人間の人生は肉体を有期貸与されているだけなのかもしれない。返還期限は長い人でも100年程度である。天から貸与された肉体は時と共に老化し病気になり、最後は動かなくなって自然に還っていく。貸与型奨学金は指定期間に返還義務を負い、給付型奨学金は返還しなくても良くすべて自分のものになるからありがたく感じる。多くの人間は自分の肉体が天から給付されたものだと錯覚する。この肉体は神聖不可侵の自分だけのものだと思い込む。しかし、時が経つと劣化し天に召された肉体は自然に還付されることになる。これは人間の意思とは無関係だ。そう考えると人間の人生は『肉体貸与型』だ。

曽野綾子さんが言うように人間の人生は『仮の宿』にしか過ぎないのだ。

仮の宿 (PHP文庫)

仮の宿 (PHP文庫)

そんなに深く考え込んだり悩みこんだりする必要なんて何もないんだろう。今日死んでも明日死んでも100年後に死んでも1億年後に死んでもそんなに変わりないのかもしれない。5分後も10年後も100年後も1億年後も経ってみればあっという間で全ては錯覚みたいなものにしか感じることができない。そんなことを思っていたら少し気が楽になった。この肉体もいずれ消滅して土に還るだろう。そして、また何らかの新たな肉体が貸与されることだろう。そしてその肉体もいずれ返還して無に帰すことだろう。この無限の繰り返しが人生である。人間が手に入れたと思っているものは限りなく錯覚に近い蜃気楼のようなものだ。あまりにもはかない一瞬の幻だ。

6年前の3.11の時カンボジアシェムリアップという街に滞在していた。帰国したのはそれから2週間以上も後である。だからカンボジアのテレビを通じてしかあの大震災や大津波を知らない。未だに3.11と聞いてもピンとこないのはそうした事情である。2004年にインドネシアやタイを大津波が襲い街が壊滅したのをテレビで見ていたがまさにこれと同じ感覚で3.11を感じてしまう。しかし、あまり悲観的になる必要はないのかもしれない。すべての人間の肉体は一時的に貸与されているだけであり近い将来返還しなければいけないと考えれば。