人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

何もしないことの贅沢

今日は早速スタバに行ってニューヨークチーズケーキを食べてしまった。我ながら本当に残念で悲しいルーティンである。もっと他にないのかと思っても何も思いつかない。我が人生における完全なる敗北であり、こんな私はホームラン級の馬鹿かもしれない。

ここのところ老化が激しく何をしても疲れるようになってしまった。すぐ疲れるために何かを積極的にしようという気もなくなっている。情けないことだ。20代の頃にあり余っていたパワーみたいなものが感じられない。この無意味感はなんなのだろうと自分に問いかけるが恐らく気力や精神力も含めた体力が落ちているんだろうとしか思えない。それと一通り色々なことを経験したからやる前にだいたいのことが想像つくようになってしまったのもある。「やってみなければわからない」という状態から「やる前からなんとなくわかる」に変わりチャレンジ精神がないのである。

休日の日は早起きしてあんなことをしたり、こんなところに行ったり、あんな本を読んだり、こんな映画をみたりしようという熱い気持ちもなくなってきた。カフェなどに行ってぼーっとすることが贅沢に感じられる。人生における幸せは何かをすることの満足感が大きいが同時に何もしないことの贅沢を味わうことの中にもある。ぼーっとすることの効用の一つとして明日のことや将来のことなど先のことをひたすら考えないということが挙げられる。人間とはすぐに先のことを予測し、それに備えようという計画的な思考をしがちである。そうしたくなる気持ちも十分にわかるがそれだけの生活はとても有意義とは思えない。ただひたすら何も考えず頭の中を今のことだけに集中することによってリフレッシュできる。

先のことがどうなろうがどうでも良いのだ。どうせなるようにしかならんだろう。この私が産まれてきてこうして生きているのもただこういう流れの中でこうなっているだけで偶然の積み重ねである。それを否定せず大河の流れに乗って流されていく時間を作ることが大事だ。ただ、私は過去に世界をたくさん旅してきたことは凄く大きなプラスになっていると思う。小田実という作家が「何でも見てやろう」という有名な旅行記を書いているが、まさに「何でも見てやろう」という精神で旅をしてきた。その旅によって得られた肌感覚は今でも私の思考のもとになっている。
何でも見てやろう (講談社文庫)

旅とは考えるものではなく感じるものである。thinkではなくfeelすること、頭で考える前に身体で感じ取ることこそが旅の基本であると思う。feelの集積物を後に論理的にthinkしてまとめることが有意義だと思う。正直なところ私は今自分が何をすればいいかよくわからない。自分がすべきことが見えない。直感的に「私はこれをしたい」という強いものが見いだせない。それはそれで良いと思っている。人間はそうした衝動性によってのみ生きるわけではないからだ。むしろただ何となく無意味に無目的に生きた時間こそ有効な気もしている。時間は有限なのだから何かを得るために今を無駄にしないで一生懸命頑張ろうという姿勢は良いと思うが何か嘘くさいものを感じるのだ。人生は何かに熱中したり、一生懸命取り組んだりすることだけが全てではない。欧米人のバカンスのようにビーチ沿いでひたすら読書をしたり、日光浴をしたり、じっとしたりする過ごし方こそ人間的な気がする。

とにかく今日死んでもいいと思う生き方をしたいだけだ。将来のために今を犠牲にしてストイックな生活をするのは何かおかしい。将来なんてものはただの錯覚であり、結局は今この瞬間しかなくてそれをどのように感じて過ごすことができるかが最も大事である。さて、今夜は気心知れた前の職場の仲良し達と飲み会だ。仕事と違って気心しれた仲間同士で集まる会というのはテンションがあがる。それまでは何もしないことの贅沢を謳歌しよう。