人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

道徳とか価値とか

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学校で『道徳』が教科になり、評価される科目になるらしい。これをネットで読んだ時にまたまた私らしく激しく糞真面目に憤りを感じ思いのたけをぶちまけたくなってきた。前記事同様でこういうことを書くと一気に読者が引いていくホラー状態になるのだが、これを客観的に見るのもまた面白い。一つの社会実験みたいなものである。

さて、道徳が教科になるということはどういうことなんだろう?と考えてみる。それは自分の物事における価値観とか良心とか善悪の基準を第三者(国、お上、政府)によって評価、点数化されるということである。この薄気味悪さを感じるのは決して私だけではない。

ここで結論からはっきり言ってしまうと政府の姿勢が大変おこがましいのである。たかが現政府の頭の固い保守派ごときに個人の道徳なり、価値観なり、良心なりを評価され、指導されてたまるかということ。お前らなんて別に何もたいしたことなんてないんだよと真っ先に言いたい。人間の心ってもっとずっと豊かで自由なはず。保守派が『正しき道』なり『美しさ』なりを勝手に決めてそこに誘導しようとしていくこと自体が大変醜いし、汚いし、下品で野暮でおこがましいのである。

そこら辺のバランス感覚をなぜいわゆる『保守派』はわからないのだろう??美しい日本を作りたいとか取り戻したいとか勝手に思うのは自由であるが、それをコモド(ドラゴン)ではなかった・・コドモ(子供)の時点で教育という洗脳をかけて強制しようとしている思想が気持ち悪い。それ自体が美しくない。だいたい、そんなことしたって無駄。人間なんてもっと自由だよ。

私は遺伝子の多様性の方を信じる。というのも私は家庭環境的に考えて難関大学に合格し、有名企業に入社し、高収入を得ていても全然おかしくなかったのだ。それがこの落ちぶれようはなんだ??教育の力なんて小さいものだ。教育は遺伝子に負けるようにできている。どんなに良い教育を授けても落ちぶれる人は落ちぶれるし、ダメな人はダメだし、逆にどんなに教育が悪くても自分で自分を教育し高みにのぼる人もいる。それは持っている遺伝子で決まるのだ。

道徳とか価値とか良心とかって誰かに無理強いされたところで素直に受け入れられるものではない。そんなことしたって反発心がでるだけである。そうしたものはあくまでも自分自身の心でナチュラルに素直に感じ取るものである。美しい日本とか誇り高い日本とかいう抽象的な価値観についてもそう。美しいとか誇り高いという形容詞は各自が自分自身の心に照らした結果(自然に)決まるものであり、それは他者の感覚とは取り換え不可能なのだ。それこそが個性である。国から押し付けられるものではない。

ここら辺の微妙なバランス感覚をなぜ今の政府のお上達はわからないのだろう??

確かに美しいとか綺麗とかかっこいいとかって漠然とみなが一致した形であるのは事実だ。誰もが認める美人とか美男子っているからね。でも、それを好きかどうか?って全然別問題。ここに人間らしさがもろに出る。確かに綺麗なんだけどかっこいいんだけど、性格もいいんだけど、どこか好きになれない人っている。これが遺伝子の多様性である。

職場に行くと必ず一人は『積極的にいいことをする人』っているものだ。私はこういう人が凄く苦手である。計算高さが見えてしまい、気持ち悪いからである。確かにみんなのために何かをすることは客観的な評価につながるだろう。政府がそうした人材を増やすために道徳を推進したくなる気持ちもわからなくはない。しかし、こういう『進んでみんなのために犠牲になる人』が心の底でどう思っているかこそ大事だと私は思う。その人が本当に義務感からそう思って行動しているのか・・自分が評価されたいがために、目立ちたいがために、好かれたいがために、ポイントを稼ぎたいためにやっているか・・それは近くにいればなんとなくわかることである。

戦時中は『進んでお国のために犠牲になる人』こそが最も尊い人だったのである。しかし、それこそ薄気味悪さの象徴だと思う。本当に心からそう思っての行動ならまだ救いはあると思うが、周囲の空気から嫌々そうせざるを得なかった人達、ポイント稼ぎのためにそうした行動をした人達、半強制的に犠牲になっていった人達など色々いたはずだ。これを一まとめにしてかつての日本はまとまっていて美しかったとする道徳観は気味が悪い。

道徳とはあくまでも個人の実践である。その人が何の計算もなく純粋な義務感から黙って何か人のために行動する時に感じる高貴さや誇り高さや美しさこそが本物だと私は思う。