今回のフランスで起きた「シャルリ・エブド」襲撃事件とその後のイスラム教徒達のデモや主にキリスト教を中心とした欧米諸国の対応を見ていると実に色々と考えさせられることが多い。
フランスにその傾向が特に強いが欧米の先進諸国には「表現の自由」はどんな状況であっても守られなければいけないと言う強い信念がある。
これは日本においても基本的にそうである。例えそれが結果的に相手の名誉を毀損する事態になったとしても表現の自由を公権力を中心とした何らかの権力で事前に抑え込むことは民主主義の精神に反するという考え方である。
憲法が保障している「表現の自由」を行使した結果、対立に至った場合には、決して暴力を用いず互いに言語を用いて議論をして解決の道を探るというのが先進諸国が標榜する民主主義の基本理念である。
例え議論が噛み合わず裁判に至ったとしても徹底的に互いに自己の正当性を公明正大に言語で闘うという姿勢である。
ところが、今回のイスラム過激派を中心とした一連のテロ事件はそうした言語を用いた議論を暴力によって抑え込もうという一見すると大変強引なやり方である。
イスラム過激派の人達にしてみればイスラム教の絶対的な唯一神「アッラー」を冒涜することなど根本的に考えられないほどの暴挙であり、屈辱であり、野蛮で卑劣で人間として最低最悪な行為なのである。
アッラーを冒涜するような人間など殺しても良い位の強い信念を持って神を信仰しているのである。
こうした強い信仰心を持ったイスラム教徒を欧米先進国型民主主義の理念を用いてイスラム教徒以外の人間が言語で説得を試みようとしたところで根本的にまるで噛み合わないのである。
敬虔なイスラム教徒からしてみれば、自分が産まれた時からあるいは産まれる前から既に「アッラー」は絶対的な存在であり、ゆえに「アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)」なのである。
ところが、それ以外の者からすれば「は?何言ってんの?この人達」とか「ちょっと頭おかしいんじゃないの?」と違和感を感じてしまう場合が多いのである。
イスラム教徒以外の人からすれば日々TVのVTRなどでシリアやイスラム国の過激派達が「アッラーアクバル」と叫びながら銃を乱射しているのを見ると強烈な違和感を感じるはずである。
ところが、それは当事者からすれば唯一神アッラーに身を捧げる聖戦であり、信仰心を基にした命掛けの本当の戦いなのである。
イスラム過激派でない先進諸国の我々からすれば「アッラーのどこが偉大なのか?」互いに議論をして理解を深めていこうと考えるのは普通のことである。
しかし、そうした考え方は彼らには通用しないのだ。
理屈など抜きにしてアッラーは常に絶対的な存在なのであり、その教えはどんな理由があっても絶対に守らなければいけないことであり、守らなければ自動的に(イスラム法に法って)罰せられるのである。
敬虔なイスラム教国(例えばイランやイラク、サウジアラビア・・etc)では例えば結婚前の女性が性交渉を持つことは重罪である。また、結婚した女性が浮気をすることも大変な重罪であり、姦通罪として罰せられる。
下手をすれば家族の名誉を汚したという理屈で娘が父親から火をつけて殺されたり、リンチを受けて殺されたりするのである。
その位イスラム法の縛りが強い地域が未だにあるのだ。
こんながんじがらめの中で何十年も育ってきた人間が急に見ず知らずの国の人達から自分達の絶対的な神であるアッラーを否定されたらどうなるか?は目に見えることである。
それでも・・私は表現の自由は絶対に守らなければいけないと考えている。
それが例えイスラム教を全否定することになってもテロを誘発することになっても仕方がないと思う。
それだけ表現の自由は大切なものだと考えている。
フランスのオランド大統領は「シャルリエブド」の諷刺画に関して「表現の自由はフランスの文化であるから必ず守らなければいけない」と言い擁護したが、私はこれを本当に素晴らしいことだと感じている。
過激なイスラム教の方々に言いたいのは「常に自分達が絶対だと思うな」ということである。
この世に絶対的なものなど1つもないのだ。
自分と同じような考え方をする人々もいればまるで間逆の考え方をする人間も大勢いるのだ。
お互いがそれぞれの意見を主張しあって自分達の文化や慣習を守っていけば良いだけなのだ。
別に相手から否定されたって一向に構わないじゃないか。自分達が本当に素晴らしいものを信じているのならそれが他人から言葉や諷刺画という形で攻撃されたところでテロを起こして人を殺す必要などないのである。
正々堂々と批判仕返せば良いだけの話である。
イスラムが非寛容だと見られてしまう原因はこうしたところに問題がある。
たとえ、イスラム教徒がアッラーが絶対だと思っていても私にとっては絶対でもなんでもない。
それは死ぬまで変わらないであろう。