人間が持つ常識的な思考の中に確率というものが存在するが、これはよく考えると物凄く怪しい代物である。
というか確率なんてものはほとんど嘘だと言っていい。
それはなぜか?厳密に考えてみると良い。
例えば、「貴方が今の貴方に産まれる確率は何億分の1くらい低いんだから貴方の命を大切にしなければ駄目なのよ」とか「あなたが豊かな日本で五体満足な身体に産まれて自分の望むように生きられるのは(確率的に凄く低いのだから)凄くラッキーなのよ」とか言うようなこと誰でも一度は聞いたことがあると思う。
確かに、そう言われてみるとそんな気もしてくる。
しかし、よくよく考えてみるとそんなに低い確率でも現に起きてしまっているのだ。これをどのように考えたら良いのだろう?
もし、そんなに低い確率ならそもそも起きなくても良いじゃないだろうか?
そんなにこの自分に産まれてくる確率が低ければ別に生まれてこなくても良かったのではないだろうか?
そんなに起こりえないことなら起こらないことのほうが妥当なのではなかろうか?
しかし、その全ては現に起きてしまっていることなのだ。
私は物凄い低い確率を突破してこの私としてこの世に生まれて来てこうして生きているのだ。
つまり、確率というものは結果論でしかないということなのだ。
例えば「私が私としてこの世に産まれてきて、様々な災難に見舞われながらも死なずに生きている」という結果がまず先にあってこれを色々と考察してみたらどうもとても凄いことらしいと後付けで考えているだけなのだ。
結局、人間の頭の中で全てを都合よく解釈しているだけなのである。
人間という生き物は想像力が豊かだから色々なことを分析し考察し、且つ自分達の実感に沿うように都合よく解釈することができる生き物である。
そして、なぜそうするのかと言うと、端的に言えば幸せになりたいからである。
確率論を持ち出すのも同じ理由からである。
自分が自分として産まれてきたことはとても低い確率だからこそ、この命は尊いものであり、自分はこの世に大切な存在であり、他者から大切にされるべきであり、長生きすべきであるという結論に至りたいのである。
なぜならそう考えたほうが幸せに感じるからである。
でも、よく考えるとアフリカのどこかの貧しい国の貧しい親のもとに生まれてきて栄養失調ですぐに死んでしまうのも、イスラム国に生まれてきて戦闘員に殺害されてしまうのも、北朝鮮に生まれてきて強制収容所に収監されてしまうのも同じくらい低い確率である。
そして、それらは実際に起こってしまっているのだ。
よくよく考えてみるとこの世に起こっていることはどれも一回限りの極めて低い確率のことでありながら、その極めて低い確率が実現してしまっているという不思議な構図になっている。
よく宝くじが当たるのは極めて低い確率だと言うが現に当たってしまった人にとっては100パーセントの確率である。
現に実現してしまった以上、確率論なんてものはどこかに吹っ飛んでしまうのである。
東大に合格する確率が極めて低くても現に合格してしまったら100パーセントである。
未来がわからないからこそ、過去のことから推測して人間が適当にパーセンテージなるものを当てはめているだけに過ぎないのが確率論である。
そして、一寸先のことが何もわからないからこそ確率なんてものはどうとでも好きなように言え、結果的にすべて嘘だということになるのである。
私が明日生きている確率はほぼ100㌫近いと今の私は思っている。
なぜなら、私は元気だし、誰からも殺されそうな気配もないし、大地震で死ぬ気もしないし、病気で急死しそうな気配もないし、今から自殺するわけでもないからである。
でも、1時間後、急に私の気持ちが変わり、どうしても死にたくなって首をつって死んでしまったとしたら私がさっきまで考えていた確率論(明日の生存確率)などは一気にどこかへ吹っ飛んでしまう。
それほど確率なんてものはいい加減なものである。
私は、確率は信じない。そんなものはどうでもいいことである。
はっきり言って私は生きていても楽しくないし、早く死にたいと思っている。別にそれで一向に構わない。
確率的に長生きできてもそんなものは虚しいだけだ。