人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

仕事に対して常に冷めていたい

仕事に対して常に冷めた心で取り組んでいたいと考えている。

これは世間に対してそうすべきだというような社会化した自己主張ではなくて、あくまでも個人的な信念である。

もちろん、信念と呼ぶべきものはそれこそ人の数だけあるものでそれぞれがそれぞれの人生経験に基づいた信念をもとに自分らしく生きていけば良いしそれが他人に迷惑をかけないものであればなお良い。

仕事に対して常に熱い心で情熱を持って取り組む生き方も良いだろう。

仕事というものは多くの場合、チームワークを必要とするものだから迷惑にならない程度にお互いの状況を配慮し合って取り組む必要がある。

仕事に対してやる気がなく手を抜く人というものがどこの職場にも必ずいるものだが、当然ながら私はそういう手合いが嫌いである。

なぜならそういう手合いは他者に迷惑をかけるからである。

私はそういったやる気のない無気力な輩を問題にしているわけではない。

そんな輩は論外であり、議論の外にいる。

そうではなくて、仕事に対して一生懸命熱心に取り組みながらも常に仕事に対して冷めた心を持てと言いたいわけである。

人は常に仕事ができる人を尊敬し、評価し、認め、誉め、その社会的な価値に対して讃えたがる生き物である。

そして、そうすることで自分が同じように仕事を頑張り成果をあげることで他者から認められ、評価され、賞賛をされたいという生き物である。

人間という生き物は当然ながら生きている以上自分が最も可愛いに違いないのだから本当は他人を評価し、褒めたたえるよりも自分が賞賛を浴び、褒められたいという気持ちを隠し持っているのである。

他人から評価してもらう為にはまず持って他人を評価する必要があるから仕事に熱心に取り組み成果をあげた人間を持ち上げようとするわけである。

ここに渦巻いている自己愛に警戒せよと私は言いたい。

他人から認めてもらうために頑張る、そして実績を残す、お金をかせぐ・・それら全ては別に自然なことであり素晴らしいことであるに違いない。

しかし、これが進んでいくとどうなるか?というとなんだか薄気味悪い世界が待っているように感じるのである。

北朝鮮の様子をtvで見ていてまず感じるのはどうしようもない薄気味の悪さである。

右を見ても左を見ても将軍様万歳の掛け声が聞こえてくる。

将軍様は偉大なお方なのだから常に賞賛し、賛美せよとの圧力がかかり、身の危険を感じて嫌々にそうしている国民がほとんどだと思う。

そして、それは正しい事だと思う。

反対すれば処刑されたり収容所に送られたりする過酷な状況で身を守るためにはそうせざるを得ないはずだし、致し方ないことであると思う。

北朝鮮国民は将軍様万歳と熱狂的に叫びながらも内心は冷めている人がほとんどであると思われる。

これも自然なことであると思う。やりたくもないこと、思ってもないことを無理やり言わせれて幸せに感じる方が不自然だろう。

しかし、中にはそうでない人もいると思われる。

本心から将軍様を賛美し熱狂的に盲信している人であり、下心があって自分が 北朝鮮内部で昇進したかったり、評価されたがっていたりする気持ちが強いがためにより熱狂的に将軍様を賛美している輩である。

こういう輩には注意が必要である。自分の地位の為に言わば自分の欲望のために嫌なことを嫌だと思わずに遂行できるからである。

将軍様の賛美を渋る輩に賛美を強要し、それを上司に報告して自己の評価を高めようという魂胆である。

これは大変に危険なことである。

どう危険なのかということを説明すると長くなるので割愛するが、直感的にこうした輩が世にはびこるとろくなことにならないことは常識人であれば想像できる。

太平洋戦争の最中の軍国主義の日本がそうであったし、ナチスドイツのヒトラーに忠実に仕えるゲシュタポがそうである。

彼らにとっては自国や自国のトップを賛美すること、他者に賛美させることが仕事である。

現代日本においての仕事は当時の軍国主義の日本の軍人などが行っていた仕事と全然異なるのだろうか?と考えてみると共通している部分もある。

仕事の形態がどうであれ仕事において業績をあげたものが評価され賞賛を浴びる構造がある。

そして 常に仕事に熱心に取り組み、自己犠牲で頑張るということは仕事に対して奴隷になることと同義とは言わないまでもそれに近付くことである。

それが他者のためになるのだからおおいに結構なことであると思うのは自然であり私もそう思うがその価値観を他者に強要することは問題である。

将軍様万歳の掛け声であろうと、物作りであろうと、サービス業であろうと種類は違えど仕事である。

それがその国にとって価値をもたらす以上、仕事とみなして良いだろう。

近頃ではイスラム国の兵士が捕虜の首を切り落としたり、アッラーアクバルなどと叫 ながら敵国に銃をぶっ放すことなども同様に仕事である。

これらのことはその国にとっては価値をもたらすと考えられているから仕事と呼ばれるわけである。

自分の身を守るために仕方なく嫌々な心持ちで冷めた気持ちで行っている者にはまだ救いがあるように思う。

しかし本心から熱い心を持って何の疑いも持たずに仕事に邁進し、それを周囲の者に強要する人間は大変危険だと思う。

宗教でも信心でも仕事でも趣味でも何でもいいが、自分の中で最大限取り組み、満足すればそれで良いのである。

それを他人に強制してはいけない。

特に人が嫌がることを率先して引き受ける場合などは特にそうだ。

嫌々取り組むからこそ価値があると思う。

本当に心の底からやりたくないと思っていることに嫌々と取組むからこそ価値があるのだ。

誰もが嫌々やりたがらない仕事を率先して取り組み文句一つ言わず、本人も何とも思っていないのだとしたらそこに価値は見出せないと思うし、奇妙なことだ。

そこに何かを隠しているはずである。

嫌なことを率先して引き受けて文句ひとつ言わないという姿勢を評価されたいという下心を隠しているかもしれない。

そしてそれはなんともあまり良い気持ちがしないものである。

もっと単純に生きるべきだと私は思う。

やりたいことは進んでやって、やりたくないことは嫌々やる。

それで良いと思っている。

仕事に対して常に冷めていたいという信念とはつまりそういうことである。