私が好きな哲学者 中島義道氏がネット上で人生相談(中島義道の人生相談 悩ましき哉人生)をやっていてこれがなかなか的を得ていて面白いですね。
その中でとある相談に対して以下のように答えていて、納得しました。
~中略~ 以下本文引用
自分の信念を貫きながら、いかなる傷も受けたくないという甘ったれた期待など抱いてはならない。信念はそれが少数派であればあるほど、社会の趨勢に逆行すればするほど、全身傷だらけになる。だからこそ価値があるのです。
「いい人」にムカつきながらも、社会から排斥されると怖いから、適当に社会に同調するにはどうしたらいいのか、という「中途半端」は、(「悪い」というより)私の趣味に合いません。「中途半端」ではないとすると、私がレポート提出前に言ったように、(1)自分の生きにくさをテコにして、いかなる傷を受けてもそれをさらに追求するか、(2)それをさらりとかなぐり捨てて「いい人」で充満する社会に迎合するか――しかないでしょう。
そして、私は(1)のみならず(2)も真剣に求める限り、立派な生き方だと思います。「いい人」になるのがとても簡単な人が「いい人」になっても、何の価値もないのに対して、あなたのようにそれがとても苦手な、いわば「生きにくい」人がその実現に向けて全力を傾けることは、とても価値あることです。誠実にそうした努力を続けているうちに、たぶんあなたのひたむきな態度を見て、同調する仲間ができることでしょう。
~引用終了~
世間でとりわけ仕事という利害関係が渦巻く世界で自分の信念や哲学を貫くことに難しさを感じている人はこの世に多くいることでしょう。
特に世間にはいい人(一見いい人を演じている人も含む)がうじゃうじゃいてそういう人達と自分の哲学や信念が対立する局面が生じることもよくあります。
そうした場合に、相手の哲学や信念に迎合するのか自分を貫いて徹底的な対立路線をとるのかはとても難しい判断になります。
後者をとると自分の立場が危うくなるような場合は特にそうでしょう。
つまり、自分が相手に迎合していい人を演じれば演じるほど自分の哲学や信念を曲げなければいけなければならず、自分に嘘をつくことになるので悔しいし、哀しいし、納得ができず、わだかまりが残ります。
しかし、その結果として社会的にはいい人という烙印を押され、組織の中で生きやすくなるという利益が得られます。
一方で自分の哲学や信念を貫いた場合、立場が危うくなりますが、自分自身のプライドを守ることができます。
私は、あまりいい人ではありませんが、それなりにいい人に思われたいという気持ちもあります。
でも、常にいい人を演じて自分の哲学や信念を捨て続ける生き方だけは(いくらそれが自分の立場を良くするという意味で利益になろうとも・・)したくないという強い思いもあります。
こういう場合はやはり、いい人を無理に演じることは一切辞めて全身傷だらけになる覚悟で嫌な人になる・・つまり哲学や信念を貫いていく必要性があるように思います。
間をとって賢く生きようとか賢く立ち回ろうという考え方もありますが、そうした中途半端は余計に悪いと思います。
まさに、そうした考え方こそが自分の哲学や信念に反するからです。
ここは非常にセンシティブな問題ですね。
他者から嫌われたくないが自分に忠実に生きたい。
でもそれは限りなく困難である・・こうした状況を目の前にした場合、やはり中途半端はいけないんじゃないでしょうか?
自分を貫いて傷を負ったほうが潔くてカッコ良いのではないでしょうか?
私はそう思いますね。