人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

夏休みのプール

今の職場ははっきり言って行くのが全然嫌でもないし苦痛でもないから夏休みのプールに行く気分で通っている。

行くのは多少面倒臭さい氣持ちはあるけど行ったら楽だし、楽しいし、忙しくもないし本当に小学校の夏休みのプールそっくりの気分である。

世の中には仕事に行くのが嫌で嫌でたまらない人もたくさんいるからありがたいことである。

自分にとって仕事はどうでもいいことなのであまり力を入れたくない。

仕事も人生もどうでもいいのだ。

どんなに一生懸命働いてお金を稼いで評価を高めても虚しいことに変わりはない。

それに仕事を頑張ったり、評価されたりすることで思い上がりたくない。

周囲を少し見渡して見ればいかに自分が無力なのかを思い知らされる。

他人が作った物しか見当たらないはずだ。

他人が働いた成果があるから自分は生きていられるというだけで自分のしている仕事もしてきた仕事も本当に大河の一滴である。

多少頑張ったり、評価されたりしたところで世界を見渡せば本当にちっぽけな仕事しかしていないし、物理的にもできないわけだから思い上がって自分は凄いなんて思ってはいけないのだ。

それにしても昨日のバス運転手にはまいった。完璧主義を客に押し付けるのはやめてほしい。

確かに安全に時間通りにバスを運行させたい気持ちはわかるのだけどもっと気楽に運転してほしい。

車内アナウンスがやたらにお節介だし、細かくてうんざりするのだ。

『何時何分に出発します。その1分前には点呼を行います。遅れると他のお客様の迷惑になりますので必ず時間までにお戻りになられるよう無理なお買い物はお辞めください』というこ繰り返しアナウンス。

本当にお節介である。

何時何分に出発しますという一言だけで十分だ。

むしろ時間に遅れるのは一向に構わないが余分なお節介アナウンスは癪だから是非ともやめてほしい。

このお節介アナウンスの何が嫌いって自己責任論を無視した管理主義である。

時間までに戻れなければ出発するのだからそれまでにバスに戻ればいいし、戻れなかったら置いていかれるのは自己責任なのだから潔く諦めればいいだけの話である。

小・中学生の引率の先生じゃあるまいし管理主義的な姿勢で子供のようにああしろ、こうしろと客にお節介放送を流すのはウザくてたまらない。

直にバスや電車に乗ると『車内は揺れますから本を読むのはやめましょう。』とか『目にはブルーベリーがいいですから積極的に食べましょう』とか『家族団欒の為に外食をできるだけ辞めて家で家族で食事をとりましょう』とかの道徳的なアナウンスが流れるようになってくるかもしれない。

うわー、想像するだけでうざったい世の中だ。

バスや電車の運転手さんにプライベートなことまで口を出され、ああしろこうしろと注意を受けるなんて、乙なもんだ。

それにしても集団的自衛権の行使が違憲なことなんてとっくに結論が出ているのに今さら合憲だとかろくな説明も根拠もなく言い出す安倍晋三という男は本当に馬鹿じゃないのか?と思う。

別に人生そのものに興味がないし、いつ死んでもいいし、日本どうなろうがどうでもいいことだが、論理的に破綻していることを認めようとしないで意地になって白い物を黒いと言い張る姿勢があまりにも馬鹿らしいしやり方として姑息だからイライラするのだ。

もっと正々堂々と憲法変えたいから変えるとか戦争したければ戦争したいとか言えばいいのに。

安倍晋三始め、自民党内には太平洋戦争で日本が負けたことが未だに受け入れられなくて認められなくて太平洋戦争前の『かっこよくて美しい』日本に戻したいと言う人間がたくさんいるのである。

この考え方を私は100%承諾する。

人間の考え方はまさに10人10色であり、物事の捉え方も人それぞれだから戦争が大好きだったり、軍国主義が大好きだったり、侵略が大好きだったりする人は日本国内にたくさんいるのだ。

しかし、現行憲法がダメだと言っていることは駄目なのだ。

なぜなら日本は民主主義の国であり、立憲主義の国だから。

解釈を拡大すれば集団的自衛権を行使できるとか論理が破綻した馬鹿な説明はやめてほしい。

戦争をしたければ戦争できるように憲法を変えてからしろと言いたい。正当な手続きを踏んでからすればいいのだ。

集団的自衛権が平和を守るとかかっこつけた説明をしないで憲法を変えて正々堂々と戦争ができる国にしてしまえばいいのだ。

本当はそうしたいのにイメージを下げたくないために姑息な手段で強引に違憲の法律を勝手に作って通そうとしている姿勢があまりにも酷すぎて呆れ果てる。

どちらにせよ安倍晋三なんて何も尊敬できない男だ。