人生って不思議なものだ。
結局は近い将来(遅い人でも数十年後)に確実にこの自分は死んでこの世からいなくなることがはっきりしていて自分もそれを知っているのにも関わらず、人は皆将来を語りたがるからである。
人は皆お互いにまるで死ぬことがないかのように未来を語り会うのだ。
こんなことやあんなことをしたい、こんな仕事に就いてこんな仕事がしたい、こんな人と結婚してこんな家庭を築いて子供が何人ほしいとか人それぞれ自分の将来を空想し楽しむ。
人生とはそういうものである。
しかしその後に訪れるであろう死という絶対的な無に関してはとりあえず考えないようにして将来を考えているのだ。
結局のところ何をしても死んでしまう。
これはとんでもなく凄いことだ。
この世でどんなに凄いことを実現してもたった数十年後にはこの自分がこの世からいなくなる運命にあるのだ。
確かに子供を作って自分の遺伝子を半分はこの世に受け継いでいくことで将来は継続していくと考えることもできるが子供は別人格であり、やはり他人である。
そう考えると自分はこの世に1人しかいないということになる。
それがたった数十年のうちに将来をあれこれ考えて結局は死んでいくのである。
将来とは結局のところ何なのか?と思うことがある。
そもそも将来とか未来なんてものがあるのだろうか?
人間の頭の中でこしらえたフィクションなのではないだろうか?
そうだとしたら将来という架空の構想物を自由に頭の中に作っていけばいい気もする。
どのような未来を実現したとしても死を持って無に帰する運命があるのならそれは虚しいことだ。
以前の自分は物凄い貪欲でいつも何か物足りなくあれもしたいこれもしたい、あそこに行きたい、ここに行きたい、こんな体験やあんな体験をしたい、あんな人やこんな人と知り合いたいとガツガツしていたものだ。
海外一人旅も何十回と行き様々な経験をしてきたつもりである。
しかし、それら全ては一体何だったのだろう?と思うことがある。
確かに面白い体験を色々としてきた。
しかし、何一つ実感が湧かないのである。
それは今経験していることではなく過去に経験したことであり時間の経過と共に記憶が風化してしまったからである。
思い出してみても海外で実に色々な冒険をしてきたものだった。
でも本当に自分がしたのだろうか?他の誰かの経験と混同しているのではないだろうか?
そんなことを思うことすらある。
実感があるのは今というこの瞬間だけだ。
全ては幻のようにも感じる。
海外での強烈な体験ですら時とともに風化してしまって自分の体験だとすらはっきりと断言できなくなるほど困惑するのだから今してることなんて数年も経てば思い出すことすらできなくなるようなことである。
人間という存在は常に将来に向かって生きている。
常にその人なりの将来を頭に描きながら生きている。
でも将来という視点で現在を見てみると人生なんてものは結果論でしか語れないのだとわかる。
将来のために老後のためにいくら貯金すれば良いとかどんなことをしておくほうが良いとか言う人がいる。
しかし、本当に必要なことなんて実は何もないんだ。
本当に必要なことはただ、今だけを生きていることだけである。
今だけを生きた結果の積み重ねが将来であり、過去でもあり、総合的な意味での人生なのである。
将来に必要なものなんて一つもない。
今しか存在していない。
しかもその今も自分がどのように捉えるか、どのように意識するかで全然違うものになってしまう。
この世というものは確個たるものとして厳然と存在しているのではなくグラグラとした揺らぎのような形で存在していて人間がその瞬間にどう意識するかで全てが決まるような形態なのだ。
だからこそ人間は決断力がある人に憧れついていきたくなるのだろう。
将来のために必要なものなど何もないと開き直ってしまうと人生は物凄く楽になる。
肩の荷が降りる。
将来のためにこの位貯金が必要だ、将来のためにあれをしてこれをしてこんな資格をとってとか色々と制約を設けていくと結局人生の柔軟性が全くなくなっていく。
人生に何をしてもいい。
どう生きてもいい。
ただ、自分の直感を頼りに今この瞬間に集中してやりたいことをやればいい。
1人の人間の人生など所詮何をしたところでコオロギが鳴くのと同じ位ちっぽけなものだ。