ぃ昨夜は、上野に行って商店街をブラブラ歩いていた。
そして、夕食はタイ料理屋へ。
雰囲気は最高で久しぶりにタイに来た気分にさせてくれた。
しかし、料理は高めの割にイマイチ。豚肉入りカレーを食べたのだがなんか、量が少なくてけちっている感があり、辛いのが食べたかったがスパイスも効いていなくてガッカリだった。
今日の昼飯はどこで何を食べようか今からとても楽しみである。
昨日も色々なことを考えていた。
なんだか、人生ってやはり虚しいものだと思う。
結局のところ人生は色々なものに囚われ、束縛されていく中で終わってしまう。
職場だったり、自分の能力だったり、才能だったり、チャンスだったり、お金だったり、人間関係だったり、色々なしがらみがあって全てのことを自由に思うがままに選択することができない。
一つのことを選ぶことで多くのものを失ってしまう。
一つのことに集中することで周りが見えなくなる。
しかし、一つのことに集中できない人間は価値が低い。
やはり、一つの仕事に集中して取り組んでいる人間に魅力を感じてしまうものだ。
選択するということはその他大勢を捨てることである。
何を捨てるかが大変に難しいのだと思う。
なんてことをツラツラ考えていたら、やはりどうでもよくなってきた。
常にどんな状況であっても『自分』であればいいのだ。
自分らしく胸を張って選択を受け入ればいいのだ。
不安になる必要は何もないと思った。
結局のところどんなに全てが思うようにいっても完璧でも納得できてもわずか数十年の人生であることに変わりはない。
何を成し遂げても何を手に入れてもどんなにお金を手に入れても自分が数十年後にこの世からいなくなることははっきりしているのだ。
だから常に自分自身であろうとしていればいい。
一人の人間ができることなんて所詮ちっぽけなものなんだし。
なんてことを考えてとりあえず不安を切り抜けた。
常に一人で過ごしているとやはり不安になるものだ。
かと言って誰かに慰めてもらうのも虚しい。
上野の飲屋街を歩きながら楽しそうにガハガハ笑いながら酒を飲んでいるサラリーマンや若者、おじさま達を見て自分も混ぜてほしいなと少し思った。
やはり、飲むのは一人では面白くない。
私は他人がワイワイ飲んでいる様子を見るのが好きだ。
自分まで楽しい心持ちになる。
あれぞまさに人間の原風景である。
少し前に産まれてきてもうじき数十年も経てば皆死んでいく運命にある途上での憂さ晴らし。
人生なんて真面目に考えたらとてもやってられない。
なんてことを考えていたら急に宿に帰ってのんびりしたくなり、宿に戻ってさっさと寝てしまった。
宿は最高だった。安い割に設備が整っていて個室で綺麗で居心地が良くてゆったりできて騒音もなくてコストパフォーマンスが最高。
日本製はクオリティーが高いが、旅をしていて思うのは宿の質の高さである。
東南アジアの安宿なんかと比べて見るといかに日本の安宿が便利で快適で優れているかよくわかる。
かと言って、東南アジアの安宿に泊まるのはとても好きだし、お金を超えたものがあるからやめられない。
東南アジアの安宿には日本や先進諸国にはない人間臭さがあるのだ。
家族経営している安宿なんかに泊まると家族の匂いがプンプン漂ってきて居心地が良いものだ。
日本の民宿みたいな感じである。
しかし、私には日本の民宿は敷居が高い。
どうも居場所がないというか寛げない感じがある。
やはり、民宿は複数で泊まる方が楽しいと思う。
今日も片意地はらずにゆったりと過ごそう。
ガツガツして何かを手に入れようと躍起になるのもいいが虚しい。
常に自分は自分なんだと感じながら余裕を持って生きている人間って魅力的だよね。