人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

原爆の日

今日は長崎に原爆が投下された日。

私が海外に出ると驚くことの1つに『広島と長崎』は外国人なら誰でも知っていることがある。

海外を旅していて外国人と話す機会があると「貴方はどこの国の出身ですか?」と聞いてくるために「日本です」と答えると「日本のどこ?東京?大阪?京都?広島?長崎?」と聞いてくるのだ。

それくらい、外国人のほとんどが世界で初めて原爆投下された広島と長崎の地名を知っているのである。

いかに原爆の威力が凄まじかったか?被害が大きかったか?インパクトが大きな出来事だったかを物語ることだと思う。

日本と言うと芸者やサムライや歌舞伎や相撲や寿司など外国人には馴染みのあるイメージがいくつかあるけどその最上位に「HIROSHIMAとNAGASAKI」が来るのだ。

日本とは良くも悪くもそういうイメージの国である。

そしてその後の平和と発展は目を見張るものがあり余計にその落差に驚く外国人も多いのだろう。

政府はさっさと安保法案を撤回してもらわないと困る。

戦争はしないと誓ったはずである。

なぜ集団的自衛権を使ってアメリカが勝手に惹き起こした侵略戦争の手伝いをしなければいけないのか?

この意味を良く考えなければいけない。

集団的自衛権が限定的だから良いとか悪いとかとんでもない話で戦争と言うのはたった1発のミサイル(限定的な攻撃)で充分に惹き起こされうるものである。

それと強調しなければいけないことは集団的自衛権は自衛ではないということである。

自衛と言うのは自国が攻撃されたときに攻撃し返すことである。

集団的自衛権というと響きが良いがようは、自国に攻撃がなくても仲の良い他国と一緒に第三国を専制攻撃できる権利である。

こんなおかしな権利はない。

これは侵略戦争と同じである。

全ての防衛は個別的自衛権で対応できるのだ。

集団的自衛権を行使する必要がある場面なんてない。

他国と第三国が互いに攻撃しあい、戦争状態になっている危機的状況に日本が介入していって武力行使をすることにより、戦争がさらに拡大していくのは誰が考えてもわかること。

火に油を注ぐのと全く同じ行為である。

抑止力になると政府は言うが、抑止力なんて概念自体が古い。

東西冷戦時代じゃあるまいし、抑止力で戦争を未然に防ぐなんて時代錯誤も甚だしいものだ。

抑止力なんて対テロ戦争には何の役にも立たない。

今の時代は紛れもなくテロ紛争の時代である。

国と国とがいがみ合い、ミサイルを飛ばし合うなどというわかりやすい構図になっていない。

それにもし、仮想敵国がミサイルを飛ばしてきたら個別的自衛権を発動してミサイルを打ち返せば済む話だ。

なぜ、アメリカに向かって打たれたミサイルの報復として日本が第三国にミサイルを打ち返さなければいけないのか?

世界一の軍事力を誇る軍事大国アメリカが戦争に負けるはずがないのだ。

日本ごときがちょろちょろ手伝ったところで何の役にも立たない。

全くおかしな話である。

明らかに確信犯的に戦争をしたいと政府が考えているとしか言えず、戦争法案なのである。

集団的自衛権に賛成する人だけ勝手にアメリカの戦争の手伝いを自分の身体を張ってやればいいのだ。

日本は個別的自衛権の行使は合憲だと解釈されているわけだから他国が攻め込んできた時点で自衛隊が必要に応じて出動して守ればいいのだし、それで守れないのなら諦めるしかないのだ。

こんな頭のおかしな狂った法案を通そうとしている政府のアホ説明に騙されてはならない。