人生とは何なのか?
私はこれまでの人生で悩み続けてきた。
と言ってもこの命題に本格的に取り組み格闘し始めたのは20歳頃から今に至るまでの15年程度の間である。
しかし、この15年間の重みはそれまでの(20歳ごろまでの)20年とは全く違うものであった。
私が生まれてきた意味はいったい何なのか?
この大問題は成人する少し前から半端じゃなく私の実存を食い破るほどに襲い掛かってきた最大の悩みであった。
徐々にわかりかけてきたことがあるのだがそれは人生とは大変にぐちゃぐちゃしたものであり、ゴミゴミしたものであるということである。
スパッと割り切れるようなことは一つもないということである。
数学のように方程式に一つの数値を入れるとはるか先まで答えが見通せてしまうような美しいものとはまるで別次元のものであるということである。
日本人は本質的に潔癖症的な部分があり、秩序を好み、清潔好きな民族だと思うし、それが今日の発展をもたらしたのだと思うのだが一人の人間が自分の実存に悩みながらもなんとか生きていかなければいけない以上、そうした潔癖な部分は忘れてごちゃごちゃ、ゴミゴミした人生を丸ごと受け入れなければいけないように思う。
生きていく以上、理想は捨てて現実主義に徹する必要がある。
最近になってようやくこのことがわかってきた。
人生とは自分が想像しているよりもはるかにぐちゃぐちゃしている。
こうだと一つの答えで解決できるような軽いものではない。
個々の人間は想像以上に多種多様で自分とは隔たった存在である。
そして一人の人間の中には理路整然とすっきりしているものとぐちゃぐちゃしたマグマのようなものが共存している。
一人の人間は時に嘘をついたり騙したりする一方で尊敬し信頼し助ける慈悲の心を持っている。
とてもこの人はこうだからと割り切れるものではない。
そうした割り切れない個人が集まって組織を作り社会を形成しているのだから、一歩社会に出れば割り切れないことが山のようにあって当然であろう。
社会に出て悩み苦しむのは当然なのだ。
というより、決して割り切ってはいけないのだ。
なぜなら我々は人間なのだから。
一つの答えで強引に相手を支配しようとすることに無理がある。
すべては不条理である。
しかし、不条理の中にも道らしきものがある。
すべてが絶対に正しくないのだがなんとなく正しい方向というのはある。
それは自分の人生の中で自分に正直になり、皮膚感覚で掴み取っていくしかなさそうだ。
人生はぐちゃぐちゃゴミゴミしたもの、まずはこれを受け入れる努力をしていかなければいけない。
だから人生は苦しい。
でも生きがいはある。