人間が生きる上で痛みや苦しみがなければどれだけ楽なんだろう?と思う。
結局のところ「死にたい」と思っても実行できないのは死ぬ前の痛みや苦しみを想像すると恐ろしくなるからである。
もし、人間存在が根本的に痛みとか苦しみを何も感じない存在だとしたら死ぬこと自体何も怖くなり、容易に実行できそうな気がする。
しかし、逆に言うと生きている間に常につきまとう痛みや苦しみから解放されたなら生きるのは大変ではないから自殺したいとも思わなくなるかもしれない。
とにかく、生きるのは嫌だ。
私は「生きているのが嫌だ」という人を集めてデモをしたい気分になる時がある。
だが、これはよく考えてみると少しおかしな話かもしれない。
「生きているのが嫌」なら今すぐ自殺すればいいだけの話だ。
しかし自殺するのは痛いし、苦しいし、怖いから嫌なのだ。
仕方なく嫌々生きてしまうのだ。
そして、その繰り返しの日々がまたたまらなく嫌になる。
もっと極論してしまうと「生まれてきたくなかった」とも思っているわけだから生まれてきたくなかった人を集めてデモをしたいくらいである。
しかし、私はその意に反してこの世に生まれてきた。
もうこれを覆すことができない。
生きていく以上「この自分」を受け入れざるを得ない。
これはたまらなく苦しいことだと思っている。
もっと楽に生きられる「自分」なら積極的に受け入れてあげたいが結局のところ「自分」しかわからないわけだから他人の人生がどうだ?なんてことは他人でなければわからない。
それぞれが、自分の苦しみを受け入れて生きていくしかなさそうだ。
そしてその最終形態が死であり、自分の死を死ねるのは自分しかいないという現実が直面している。
自分の死を他人が死んでくれたらどんなに楽だろうと思う。
しかし、これだけはどんなにお金を積んでも、技術が発展しても無理なのだ。
お金があったり、医療技術が進歩したりでできることは延命したり、苦痛の軽減をしたりする程度のことである。
どんなに世界が進歩したところで、「自分の死」を他人に委ねることだけは絶対にできないようになっているのだ。
これはある意味絶望的なことだが、救いでもある。
「自分を死ななければいけない」という点において人間は皆平等である。
そして、死ぬ瞬間は常に隠されている。
どんな人間も自分が死ぬ瞬間としての未来をあらかじめ知ることはできない。
せいぜい想像することくらいしかできないが、実際の死はその想像とはまただいぶ違うだろうと思っている。
その意味でどんなにお金があっても幸運に恵まれた人生であっても不幸だと断じるのは間違いではない。
生まれてきたということは「自分の死」を死ぬことである。
この絶対的な限界までの間にいかに自分らしく暇をつぶすかが問われている。
しかし、例え人生が失敗に終わったと思っても何も気に病む必要もないと思う。
人間はみな死んで永遠にこの世から別れなければいけない以上、平等であるから。