職場で働いていると必ず悩むことになるのが同僚との人間関係である。
職場に気が合う人ばかり集まっていればいいが絶対にそんな幸運はないと言っていいだろう。
必ずと言っていいほど、嫌いだったり苦手だったりする同僚が現れるものだ。
この苦手な同僚とどう付き合うか?プライベートなどにどれだけその同僚のことを考えないで済むかがクオリティーオブライフの質を高めるために最も重要な要素である。
前の職場は本当に最低な同僚がいて日々悩まされたが今の職場にはそれほどの大物はいないためかなり毎日の平穏は保たれている。
しかし、やはり苦手だと感じる同僚は何人かいる。
こうした人のことを感情的にどう処理するかは毎日大問題ではある。
とりあえず職場では表面的にうまくやるという第一関門をくぐり抜けた後にくるのは、プライベートにまで持ち越された苦手な同僚へのわだかまりである。
こうした感情的な問題をどう処理すべきなのかは未だによくわからない。
仕事時間外まで苦手な人のことをあれこれ考えて悩んだり苦しんだりするのは馬鹿らしいし、かと言ってふと気づくと考えてしまっている自分がいる。
私が今の職場で苦手としている同僚はやはり、「どうでもいいことに細かい人」である。
いつも顔を合わすたびにどうでもいいようなことをああだこうだ聞いて来たり、詮索してきたり、自分が少しでも納得いかなかったり知らないやり方だったりをすると不安になるのか大げさなリアクションをとるのである。
その馬鹿げた大げさなリアクションを思い出すたびに腹が立つのである。
なんで毎回毎回、同じようなことで同じように不安になり過剰に心配になり大げさにリアクションをとり、ワンパターンな行動を繰り返しているのか?と聞きたくなる。
なぜそんなに小さなことや些末なことにこだわるくせに大きなことは何もできないのだ、もっと大きなことをいくつかやってから些末にこだわれよと言いたくなる。
もう少し頭を使って先を読んで動けよと言いたくなる。
こうしたくだらないちっぽけなことに悩んでいる職業人はそれこそ星の数ほどいるのではなかろうか?
明らかにいじめられていたり、無視されていたり、差別されていたり、パワハラやモラハラを受けていたりするのは最高につらいからそれに比べればはるかにましであるが同僚のちょっとしたことにイライラしてしまう自分がいるのも確かである。
しかし、よく考えるとすぐわかるのだがそうした些末なことにイライラし囚われている自分がいるということもまだ紛れもない事実なのだ。
結局のところ自分がその程度のちっぽけなことなど気にしなければ済む話である。
同僚のちっぽけな部分を過剰に気にしているという時点で、自分の器が小さいことを証明しているようなものだ。
結局のところその同僚のレベルと自分のレベルが同じくらいなのだと思う。
気にしないようになるためには自分のレベルをもっと高めなければいけないのだろう。
しかし、この作業には終わりがなさそうだ。
人間は完璧な存在ではないから、いつもいつもどこかのレベルで悩み苦しむことになるだろう。
それが人生であり、魂の修行であると言われればそれまでである。
でも何か不甲斐なさが残る。
人生そのまま終わってしまっていいのか?と。
他人の些末なことに囚われてイライラしながら人生を終えていくのは実に虚しい。
やはりそうした時間はできるだけ短い方が良い気がする。
他人にイライラする時間はできるだけ短くしたいと思っている。
そうすると旅にでて全てを忘れたり、考えないようにしたくなったりする。
職場の同僚や気に入らない他人のことでイライラするのは実に無駄な時間だと私は思う。
自分を見つめなおすという作業も絶対に必要だと思うが結局自分が死んでしまう存在であることを考えるとそれもやり過ぎては損な気もしてくる。
人間は人格をどれだけ高めたところで死んでしまうのだ。
お金と一緒で全てはリセットされる運命にある。
この絶対的な限界を前にどういう態度をとるかでその人の人としての在り方が示される。
努力を放棄して堕落していく人間もいれば頑張って高みにのぼって踏ん張っていく人間もいる。
自分は今のところ中間かやや下くらいのところにいるのだろう。
全てはほどほどでいいと考えてしまう妥協型の人間なので自然とこうなってしまうのだ。
職場のことはできるだけ考えないようにするのがベストである。
これは最近発見したのだが職場で仕事をしている最中もできるだけ仕事や同僚のことを考えないように努力してみると楽である。
仕事に集中しながらも常に自分の好きなことを同時に考えてみる。
結局のところ仕事や同僚との良い関係づくりが人生の最終目標ではないはずなのだ。
自分には他にもやりたいことがたくさんあるし、人生諸行無常なので全ては変化の途上にあり目の前のことは消えていく運命にある。
常に心のチャンネルを変えるように努力している必要はあるだろう。
目の前で起きていることなどどうでもいいこと。
過去にあったことも変えられないという点でどうでもいいこと。
過去をどうとらえるかはその人の自由だ。
苦手な人とはなるべく関わりをもたないように努力し、関わって嫌な思いをした時は、すぐに頭を切り替える努力をし、それでもくよくよと考えてしまうような時は死ぬ直前のことを想像してみる。
死ぬ直前になったら全てのことは一切関係がなくなる。
死ぬ5秒前にお金がいくらあろうが、友達が何人いようが、子供が何人いようが、同僚との関係がどうであろうが、どんな仕事を成し遂げようが、他人からどれだけ嫌われようが全ては関係がなくなるはずだ。
死という絶対的な不幸の裏にはすべてが完全にリセットされ白紙に戻ることができるという幸福がぴったりと張り付いている。
この幸福を信じてできるだけ死を身近に感じるように思考を柔軟にしておくことだ。
死とは不幸であり、幸福でもある。
この世とお別れしなければいけないことは不幸でもあるが幸福でもある。
その時のことを思って乗り切る。
お酒を飲んで寝てしまうのも良い方法だ。
とにかく忘れるように努力すること。
この世の全ては本当にないのかもしれない。
この世の全ては錯覚なのかもしれないのだから。