人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

選択の自由について

日本を初め先進国各国において人生における選択の自由は幅広く認められている場合が多い。

これは大変素晴らしいことだと素直に思う。

自分で自分の人生を何も決められない社会は息苦しい。

どうせ死んでしまうのだし、自分の人生くらい自分で選択して歩みたいと誰しも思うだろう。

ここまではいいのだ。

問題はその次である。

今ここにいるこの「自分」を選択したのは一体誰なのか?という問題である。

普通に理論的に考えて自分を選んだのは自分ではないはずである。

産まれてきて物心ついて気付いたら自分だったというだけの話だ。

しかも生まれてくることすら自分で選んでいない。もしかすると自分で選んで生まれてきたのかもしれないが少なくとも私にはその記憶がない(笑)

勝手に生まれさせられてそれがたまたまこの自分だったというだけである。

そして、その望みもしない自分が自分の限られた能力や資質、環境、偶然などの網の目の中でちょっとだけ自分の人生らしきものを選ぶことができる程度のものなのだ。

もしも今の私が自分を設計して産まれてくることができるのであれば絶対に自分を選ばないだろう。

何の能力も才能もないただのゴミみたいな自分を選んで人生において散々無駄な苦労させられる理由はなにもないからだ。

自分が自分であるがためにあきらめざるを得なかったことは本当に山のようにある。

社会とは誠にもって残酷なものだと思う。

制度的にどれだけ選択の自由が保障されていていも自分がその能力や才能や運や環境を生まれつき手に入れていなければその選択を行使することができないのだから。

これは本当に虚しいことだ。

何もかもが思うようにいかないのが多くの人の普通な人生の現実である。

自分で自分を設計して生まれてくることができたら人生はまただいぶ違ってくるだろう。

自分で自分を選ぶことができるのならばもう一度人生をやり直してみるのも悪くないと思うこともある。

自分で自分を選んでいないのに、自分の負の部分まで色々と重荷を背負わされて散々苦労させらる人生は本当にこれで勘弁してほしいと思っている。

ただこれは一種のパラドックスであり、自分をどんなに恨んでも解決できない問題である。

もちろん、自分を産んだ親を責めるのも馬鹿げた話だ。

親ですら自分を設計して産んだわけではないのだから。

そう考えると自分自身の本当の責任者は一体誰なのか?と考えてしまう。

神様を相手に裁判でもしたい気分である。

神様に勝訴したら自分で自分を設計して産まれなおすことができる制度でもあればまた状況は違ってくるが、今の自分の不甲斐ない状況の陳情を誰も聞いてくれないのが現実だ。

まあ虚しくなるから誰にも聞いてもらいたくないが。

人生とは理不尽なものだ。

周りの人達も全員自分と同じ状況に投げ込まれていることだけが唯一の救いなのかとも思っている。