私はしょっちゅう「死にたい」と思っている。
仕事中は特にそう思う。
なんで、こんな馬鹿らしくて阿保らしい「仕事」に束縛されて不自由な生活をしなければいけないのだろうと思い、そう思っていると自然に死にたくなってくる。
「死にたい」と思った時に注意すべきはそれが何だかいけないことだと思ったり、不自然なことだと思ったり、自分だけそう思っていると不安になったりすることである。
ここで私がはっきりと断言したいのは「死にたい」と考えてしまうことは実に自然な思考の営みだということである。
よくよく考えると人生は馬鹿らしいことの連続である。
そして、その延長線上に誰も逃れられない「死」が待っている。
つまり、我々は「馬鹿らしい」と思ってしまうことを耐えず繰り返しながら死に向かっているのだ。
それに気付いてしまうと自然と死にたくなるのである。
でも、なぜか生きてしまう。
それは死ぬのが苦しいと容易に想像できるからである。
自殺して痛み苦しむのならもう少し我慢して生きてみようと思って人生をごまかしながら寿命を先延ばししているのが多くの人間の自然な人生の姿である。
人生において「虚しい」と思うことも自然なことである。
なぜなら一人の人間の人生は「孤独」にまみれているからだ。
どんなに友達がたくさんいても愛する恋人や配偶者に恵まれてもお金がたくさんあっても仕事に恵まれても自分の人生が孤独であり、虚しいことに変わりはない。
なぜなら我々は近い将来に人生の終わりが必ずくることを知っているからである。
つい数日前に51歳の若さですい臓がんで亡くなったジャーナリストでコメンテーターの竹田圭吾さんも死ぬ前に人生の本質を突いた言葉を残している。
「どれだけ治療が順調で、家族に寄り添われて、友人や仕事仲間から励まされても、孤独からは絶対逃れられない。病状が進めばさらに深まる。孤独は克服できないけど、違う側にいる自分を現実として向き合って、その認識を周囲と共有することで、ちょっと種類の違う人生が続いているだけなんだと思える」
この言葉は実に強烈な正しさを持っていると思う。
限界を知ることはとても大切なことだと思う。