皆、自分が一番正しいと思いながら生きている。 しかし、実際にはこの世に正しいことなんて一つもないのだ。 自分の常識は他人の非常識であり、他人の非常識が自分の常識だったり、自分の非常識が他人の常識だったりすることはよくある。
日本の常識は他国の非常識であり、他国の常識が日本の非常識であることもよくある。 みんな自分や自分達の常識にしがみついてなんとか平静を保っていられるのだ。 人間とはそれほどまでに弱い生き物である。
インドに行ったときにインド人と話していたら首を横に振るしぐさをされて困惑した。 どう考えてもYESと言っているとしか思えない状況で首を横に振るというか首を横に傾ける仕草をされて困惑したのだ。
日本だったら首を横に振ったり、横に傾けたりする仕草をしたら明らかにNOという意味であるし、常識となっている。 ところがインドだと首を横に振るのはYESと言う意味なのだ。 文化の違いって本当に恐ろしい。
それと、インドに行って道を聞くと適当にあっちだとかこっちだとか教えられる。 実際に教えられた方に行っても目的物は何もない。 日本人ならわからないことや知らないことに対してははっきりとわからないと言うのが常識であり誠実な対応とされている。 しかし、この常識をインドに持ち込むととんでもないことになる。
インドではたとえ自分が知らなくても知らないと答えることは相手に対して失礼だとされているのだ。 だから道などを聞いてもみんな適当にいい加減に答えるため誰を信用していいのかわからない。 本当に知っていて正解を教えてくれている場合もあるが、多くは知らないのに知ったかぶりをして適当に教えているからである。
そう考えると物事にはまず第一に自分の持つ常識があり、その次に自分の所属する職場、学校、家族、仲間、友達、地域などのコミュニティの持つ常識があり、最後に日本人が一般的に持つ常識がある。
広く知られたとおり、インドでは左手はお尻を洗う手だから左手で握手をしてはいけないし、カレーを右手(素手)で食べる。 日本人でカレーを素手で食べている人を見ることはまずないし、左手(素手)でお尻を洗っている人もまずいない。
こういうわかりやすい文化的な差異はまだ理解しやすいのでいいのだが問題なのは個人の持つ常識の相違である。 「私はいつもこうしている」と考えているものである。 職場に行くとこの常識同士がぶつかり合って個人間の対立が深まることがしょっちゅうある。 ここに根本的な解決を見つけるのはほとんど不可能だ。
とにかく自分と他人とは全然違うのだと納得するしか方法がない。 例えば、この私は旅が大好きであり休日が2日以上あればどこかしら旅にでるし、それは有意義で当たり前のことだと思っているがそれが通用するのは自分だけの範囲だ。
これを他の人に通用させようとするととんでもなくお節介なことになる。 私が仮に他人に連休を強制して旅に行ってもらうように配慮したとして喜ぶ人なんてそんなにいない。 仕事の仕方においても同じで自分のやり方など他人にはまるで通用しないのが普通だ。
しかし、世の中にはとんでもなく鈍感な人がいてこの個人間の絶望的な差異を信じられない人がいるものだ。 自分の常識(仕事のやり方)が他人に通用してしかるべきだと考える人がいる。
そういう人は耐えず他人のやり方が気に入らず、他人を気にしてイライラすることになる。 イライラするのは仕方ないがそれを口にし始めるとろくなことにならない。 あの人はこうだからダメだとかこの人はこんなやり方でしょうがないとかブツブツ言い始め自分の仕事がおろそかになる。 これは完全に本末転倒である。
結局人間は分かり合えないということを前提にして自分のやるべきことにのみ集中するしかないのだ。 いかなる形でも解決不可能な問題など生きていれば山ほどある。 解決しようともがけばもがくほど解決できないことに気付いて絶望するしかなくなる。
職場などの集団生活を強制される場においてこうした馬鹿らしいトラブルを避けるためはとにかく「見ざる聞かざる言わざる」を徹底して他人と距離を置くのが一番賢いのだ。 そうすることで自分の仕事に集中することもできるし、その結果早く退社することもできる。
他人をどうにかしようとか会社をどうにかしようとか欲を出すとろくなことにならない。 それは最初からできないことだと諦めて自分を少しだけどうにかすることに集中するしかない。
他人をどうにかしようとすることは日本とは全てにおいて真逆な価値観に彩られた大国インドという国をどうにかしようとするのと同じようなもので絶望的なことだ。 そこで何かを変えようとしたところで大河の1滴にすらならないのではないだろうか。
YESの合図の時にインド人が首を横に振る習慣はグローバルスタンダードではないからと言って我々日本人が彼の地に押しかけていって現地人を説得して直させようとしたところで全く相手にもされないことである。
いや、彼らはお金をもらえば一時的に態度を改めてくれるかもしれない。 しかし、お金をもらえなくなればすぐに元通りに戻ることだろう。 人間なんて所詮その程度のものである。
とにかく、自分と他人とは違うのが当たり前なのだから「見ざる聞かざる言わざる」で大人しくしていれば問題は起きない。 これは自分の価値観である。 その対極に位置する「見て聞いて言う」という生き方も全然アリだ。
ただし、そうするにはかなりのエネルギーと労力が必要だし想像以上に疲れるし、他者からの攻撃を受ける覚悟もいる。リア充とはかけ離れた生活になるだろう。
全ては一長一短だ。 熱い生き方をしたければ世の中に反抗するのも良いだろう。 しかし、最終的には変わらないことが多いのが現実だ。