昨日の仕事中は「もし明日死ぬとわかっていたら今日はどうするだろう??」というようなことをひたすらずっと繰り返し考えていた。
当然ながら結論は出なかったのだが個人的にとても色々なヒントを得ることができて有意義だった。
とりあえず、明日死ぬとわかっていたら絶対に仕事なんてしない。
職場で仕事をしながら「人間は毎日なんて馬鹿らしいことを繰り返しているんだろう??」と思っていた。
仕事の日の朝は気が重くて憂鬱で行きたくないし、休みたいし、時には死にたくなるのだが職場に着いてしばらくするとスイッチが入りやるべきことが見えてきて身体が自然に動くようになる。
そうすると自分の中のこだわりみたいなものが出てきて「あれもしたい」「これもしたい」「今日中にこれをやっておきたい」「これはこうすべきだ」「あの人のやり方はおかしい」「この会社の考え方は間違っている」とか色々な雑念が次々と浮かんでくるものだ。
しかし、ここで理性を働かせて冷静に考えてみると全て本当はどうでもいいことしかないのだ。
「もし明日死んでしまう」のならば仕事中に次々と浮かんでくる己のつまらないこだわりやプライドなんて鼻くそみたいなもののはずだ。
そもそも、明日死んでしまうのなら仕事なんて絶対にしないと思っていながら勝手に明日も生きているだろうと(勝手に)想像してやるべきことを決めて無我夢中でこなしている自分って一体なんなんだろう?と思ってしまう。
もしも明日死ぬなら今やっていることなんて全て無駄なこと、必要のないことである気がしてたまらない。
明日死ななくても近い将来に確実に死ぬのだから同じく今やるべきことをやったからといってとりたてて素晴らしいことである気もしない。
そうわかっていても人間という生き物はなぜか身体が動いてしまうものだ。
なぜなんだろう??????????????????????????
どう考えても理不尽なことが多い。
どんなに人生にこだわりを持っていても、プライドを持っていても、地位や名誉を手に入れても、名誉のある賞をとっても、身体を鍛えて強靭な肉体を手に入れても、人から愛されても、東大や京大や難関の医学部に入れても、最難関の資格を持っていても、億万長者であってもいずれこの身体を捨ててあの世へ旅立っていくのだ。
それなのに人間は目先のそうした煩悩を捨てることができない。
明日死ぬと仮定するのをやめて数十秒後に死ぬとわかったら私は何を考えるだろう?
その数十秒で何をするだろう?
目の前に広がっている世界に何か意味を感じるだろうか?
目の前の景色が数十秒後には消滅してしまって二度と見ることができなくなるのだ。
そしてその時は近いうちに訪れる。
人間に最も必要なことは立ち止まることである気がしている。
よくよく考えると必要のないものだらけだ。
いや、必要なものなんて本当は何もないのかもしれない。
バングラデシュの首都ダッカを旅した時、素っ裸の路上生活者が寝ていて心底驚いたものだ。
彼こそ究極の断捨離を極めた人間である。
インドで裸足の人は腐るほど見たし、上半身裸の路上生活者も見たのだがさすがに下半身はズボンをはいていた。
しかし、ダッカで見たのは本当に素っ裸の生まれたままの大人が路上に打ち捨てられている姿であった。
悲惨だがある意味正しい姿であるかもしれない。
人間は裸で産まれてきて裸(?)で死んでいく。
裸で死ぬってどういうことなんだろう?
裸というよりも完全な無としてこの世から消えることを余儀なくされる。
産まれる時はこの物質世界の中に裸で投げ込まれるわけだが、死ぬときは全くの無に突入することになる。
それはどんなに豪華な衣類を着ていても皆同じなのだ。
人間って物(衣服)で誤魔化しているけど結局本当はいつも丸裸なんだと思う。
誤魔化す人生は害悪な気がしてならない。
どんな人間も生まれて年老いて死んでいくだけだ。
成功も失敗も勝ち組も負け組もないのだ。
どんなにやりたいことをやったとしても虚しい。
何を手に入れても結局は失うことになる。
この虚しさを片時も忘れてはならないように思う。
そう考えると断捨離を進めるメリットは大きい。
とりあえず数十秒後に死ぬとしたらマイホームはいらないし、お金もいらないし、思い出のアルバムはいらないし、友達も家族も職場も何もかも私はいらない。
ただ、その時をじっと待つだけだ。
ジタバタしたって結果は同じなのだから。
人生とは常にそうなのかもしれない。
明日死ぬなら何をすべきなのかまるでわからない。