早稲田大学人間科学部教授で哲学者の森岡正博さんは著書「まんが 哲学入門 生きるって何だろう?」の中で人生の最終的なテーマを「誕生肯定」に置いている。
つまり、自分がこの世に産まれてきてしまったことのマイナス面見つめて悲嘆したり後悔したりするのではなく、この自分に産まれてきて今こうして生きていることに対して「良かった」と肯定できるようになることが目標だと言っているのだ。
これは本当にその通りだと思うし、誕生肯定という言葉を読んだ時に何か明るい光がぱっとさした気がしたのだ。
今までの自分の人生の9割以上は誕生肯定ではなく、誕生否定だったように思う。
いつもいつも自分が嫌で他の誰かにとって代わりたかった。
自分のマイナス面にばかり目がいっていた。
しかし、長くはなかったが誕生肯定している時間もあったのだった。
「自分に産まれてきて良かったな」と感じた瞬間の少し後にはもう「ああ、やはり俺の人生最悪だ。」とか「なんでこんな自分に生れてきてしまったんだろう?」と頭を抱えたことが数限りなくあったように思う。
素直に自分の誕生肯定ができた時間なんてトータルの1割に満たない。いや、1割どころか1パーセントに満たないかもしれない。
そのくらい私は私自身の人生を振り返ってみて誕生肯定することに難しさを感じていた。
これは、自分に限らずこの世に生きているかなり多くの人が同じようなものなのではないだろうか?
生きているってそれほど苦しくてつらくて嫌なことの連続で負の要素が大きいものだと思っている。
それでもなぜだか知らないが生きていなかければいけないと思っている自分がいる。
どこかで自分というものの価値を感じ取りたいのだろう。
つまり、人間は皆心の奥底で自分自身を必要としているのだ。
自分の価値を自分で見出したくてたまらない存在なのだ。
最終的に「誕生肯定」というゴールに辿りつきたいからこそ我々が今こうして生きていると言っても過言ではない。
ここら辺の究極的とも言える真理をえぐってくる哲学者の森岡さんはさすがだ。
哲学とは物事の普遍性を見出す営みだと言われているが誕生肯定という言葉には我々の心を揺さぶり、動かそうとしていくようなドラマチックな響きがある。
この世には自分の人生が苦しくてたまらずそこから逃げ出したいと思ったり死にたいと思ってたりしている人が掃いて捨てるほど大勢いると思う。
しかし、その中のほぼ全員が心の奥底では死にたくないとも思っているはずだ。
なぜなら自分自身の価値に気付いているからである。
確かに世間的には自分の価値は低いかもしれない。
誰からも愛されず、多くの人から嫌われ、能力に恵まれず、容姿が悪く、お金がなくて貧乏で、育ちも悪く、仕事も全然できないかもしれない。
それなのにこのどうしようもない自分という存在にほんのわずかな望みを託して生きている部分があるのだ。
なぜなんだろう??と考えてみる。
やはりみんな本当は死にたくないんだ。
なぜなら自分には固有の価値があるからだ。
しかし、価値とはなんだろう?
どんなに世間的に失敗続きの人生であっても犯罪を犯したり、殺人を犯したりして追い詰められている人であってもその人が生きている限り、人間は自分の価値を心のどこかで信じ続けている気がしている。
例え「俺はいつ死んでもいいし、誰に殺されようが構わないよ」と周囲に吹聴している人がいたとしてもそれは強がっているだけで本当は死にたくないと思っている部分が残る気がする。
それほどまでに人間とは誕生肯定したい生き物であり、死ぬまで自分の価値を信じ続けたい生き物なんだと思う。
それぞれの人間には他者と等価交換を許さない固有の価値があるからこそ尊いのだと哲学者カントは言った。
一見すると価値がなさそうな人間というのは確かにいる。
自分自身もはっきり言って生きていなくても全然構わない存在だと自分で思ってしまうことがよくある。
しかし、これはやはりちょっと違っているのだ。
人間それぞれには他からの操作を許さない固有の意思があり、その意思が私はまだ生きたいと本能的に思っている以上、自動的にそれぞれが不動の価値を有していると断言しても良いのである。
これは尊厳と呼ばれるものである。
我々に「尊厳」がある以上、人間はみな尊いのである。
自分の価値を決めるのは自分自身であり、他者ではないのだ。
そうは思いながらもまた悩みの谷に深く沈んでいく自分がいるのも事実である。
しかし、どんな時であっても自分が生きている限り価値があることだけは確かだ。
生きていることに意味や目的が見出せなくても生きているだけで価値があるのだからあとは誕生肯定に向けて努力していくしかない。
山を重力に従って転げ落ちていくのではなく自分自身の理性の力で登っていくしかない。
そうすることでしか誕生肯定に達することはできない気がしている。