人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

消え行くものの哀れ

ここ20年くらいの間に日本国内から「駄菓子屋」がほぼ絶滅してしまった。

私がまだ小学生の頃は結構色んなところにあった気がするのに今となってはもう絶滅危惧種である。

とっても悲しく哀れな気がするがこれも時代の変化なのだから致し方がないのかもしれない。

携帯電話もここ20年くらいの間に激変してしまった。

http://tse1.mm.bing.net/th?&id=OIP.M8f7ea70ac453519c91c358a15bbde12fo0&w=300&h=225&c=0&pid=1.9&rs=0&p=0

かつて主力だったタイプのものは完全に時代遅れになり誰も使わなくなり今や化石みたいな代物となっていった。

ガラケーはまだ残っているがじきに淘汰されていくんだろう。

携帯電話を開発、生産してきた人達って自分達のしてきたことに虚しさを感じているんだろうか??

他者に負けまいと命を懸けて死ぬ気で作った携帯が今や完全に姿形もみなくなっている始末。

人生はなんと虚しいものなんだろう?と思わずにいられない。

仕事なんてどれほどやっても虚しいことを象徴しているような時の移り変わりである。

パソコンやテレビなどの電化製品なども同じだ。

開発、生産するのにどれほど時間やエネルギーが使われてもあっという間に時代遅れになり打ち捨てられていく現実。

早起きして一生懸命作った食べ物のほとんどがロスとして捨てられていくのと同じ虚しさを感じている。

食べ物はまだ「もったいなかった」と言ってもらえるだけ救いがあるのかもしれない。

手間暇かけて作られた携帯もパソコンもテレビもデジカメも廃棄される運命になったところで誰ももったいないなんて言ってくれない。

ただただ、必要のないゴミとして地球の片隅に葬り去られていくだけだ。

働くこととはこうした無駄に次ぐ無駄の波に乗ることなのかもしれない。

そこに意味なんてないのかもしれない。

収容所などで囚人に与える最も過酷な労働の中にただひたすら穴を掘らせて、掘り終わったらそれをすぐ埋めて、近くにまた一から穴を掘らせるという作業を延々と繰り返させるというものがあると聞いたことがある。

この作業を続けていくと自分の労働が全く誰にも何の役にも経っていないことを知って絶望してしまうそうだ。

現代の先進国の労働も実は同じようなものなのかもしれない。

時々テレビでサケの遡上の様子を見ることがあるけど遡上によって力を使い果たして死んでいくサケ達の虚しさは計り知れないものがある。

なんだかそれと重ね合わせてしまう部分がある。

消え行くものの哀れとも呼ぶべきなのか。

人生とはそもそもそういうものなんだと思う。

そこに意味がないと思うとやりきれないからひたすら意味を求めて一生懸命頑張る。

しかし、最後はやはり自然界の大きな荒波に飲まれて力尽きる。

今日は、車を運転していたらふとそんなことを考えてしまった。