私が運転する車の横を幼稚園児達が乗ったバスが通り抜けていった。
幼稚園児達の様子を見ていると毎回とても不思議な気分になる。
私にもあんな頃があったのだなと思う。
生まれてから大人になっていくまでの過程は生きている限り誰もが経験するものだが、やはりどう考えてみても不思議な体験なのだ。
早熟でなかった私が園児の頃にはまだ自我がなかった。
確かに自分らしき存在が園庭を走り回ったり、砂遊びをしたり、親に甘えたりと色々なことをしていた記憶はある。
しかし、少なくとも「我思う、ゆえに我あり」の状態ではなかった。
ただ全てが漠然としていた。
中学、高校、大学、社会人と経るに連れて確実に誰とも違う「私」というものがはっきりと形作られてきた。
今の「私」は確かにここにいる。
30年前に園庭を走り回っていた「私」も今の「私」と一応は同じくくりの中に入るはずだ。
しかし、あの頃の私と今の私とはまるで違う。
「私」の同一性はどのように保たれるのだろうか?
なぜ「私」は死ぬまで「私」であり、他の誰かと取って代わられないのだろう?
幼稚園児達を見ていると、皆ほとんど同一に見える。
まるでアヒルや鶏の群れを見ているような気分だ。
そこに個性がない。
幼稚園の先生や親から見ればはっきりと見えてくる個性も部外者の私が外から観察したところでその子の個性がわかるわけではない。
私はなぜ生まれてきてこうしてここにいて、こんなことを考えながらキーボードを叩いているのか?
わけがわからなくなる。
私とはいったい何なのだ?
何度そう問いかけてみても答えが見つからないでいる。
私とは複雑で難しい存在である。
皆、わけがわからない人生を誤魔化すことに必死だ。
結局のところ、人生は何もかもよくわからない。
何が何だかさっぱりわからないのが世の中だ。
こうして生きている自分がいずれ死ぬということすらよくわからない。
生きるという現象そのものが謎であり、不可解なのだ。
園児を見ていたらそんなことを思った。