人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

人生とは理不尽そのものである

人生は一言でいうと「理不尽」である。

人は生まれながらにしてそれぞれがとんでもないハンデを負った状態で産まれてくる。

とんでもない金持ちの家に産まれてくる人もいれば、中流家庭に産まれてくる人もいれば、信じられないほど貧乏な家に産まれてくる人もいる。

物凄く優秀な頭脳を持って産まれてくる人もいれば、平均的な頭脳を持って産まれてくる人もいれば、知的障害を持って産まれてくる人もいる。

身体能力が凄く高い人もいれば、病弱で運動があまりできない人もいれば、身体に障害があって運動自体ができない人もいる。

日本に産まれてくるか、インドに産まれてくるか、アメリカやフランスやドイツに産まれてくるかシリアやイラクに産まれてくるか、ラオスカンボジアに産まれてくるかでまた人生は全然違ってくることだろう。

生きていると絶望したくなることもたくさんあるし、駄目な自分を恨むと同時にこんな自分を産んだ親を憎むこともあるだろう。

私はとても恵まれた家庭で何不自由なく育った・・から幸せだったのか・・というと全然そんなことはなくて普通に不幸である。

恵まれた家庭で育てば幸せかと言うとそうではない。

これは断言してもいい。

世の中には勘違いしている人がいるのではっきりと言いたいところだ。

幸せとはそんな単純なものではない。

不幸は単純であり、すぐに手に入れられるものではあるが幸福とは複雑で入り組んだものである。

不幸は安定しているが、幸福は不安定で、手に入ったと思ったらすぐに手からするっと逃げていってしまう青い鳥である。

私が思うに世の中のほとんどの人は不幸である。

不幸であるのが普通である。

だからと言って幸福そうな人を羨んではいけない。

幸福なんて錯覚みたいなもので、一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。

この世の中には正負の法則があり、幸福を手に入れたければ不幸を耐え忍ぶ時間も必要だ。

幸福は不幸の概念とセットになっているからだ。

楽しさと苦しさがセットであるのと同じだ。

そうしたこと全てを信じているからこそ私はお金というものが幸福をもたらすと信じていない。

つまり、お金そのものに価値を見出す世間的な信念に背を向けている。

私はお金を増やしたくないし、お金持ちにも興味がない。

確かに家庭は比較的裕福で幸福であったが、それは親から愛されていたという実感があったからであり、お金に困らなかったからではない。

貧しくても親から愛されていれば幸せだろうし、逆に金持ちでも親から愛されなければ不幸だろう。

そうした全てが生まれつきの運によるものであり、自分で選んだわけではないのだから根本的に理不尽そのものだ。

しかし、家庭が恵まれたから幸福だというわけではなくて不幸な要素なんて数えだせばきりがないほどいくらでもある。

私の身体は一応健康だが、大小さまざまな欠陥を抱えているし、見かけは(日本人らしく??)短足だ。

そういう風に考えていくと結局人生なんて所詮不幸だと思うのが自然だし、皆それぞれ不幸でもあるし、幸福な面もあるのだから、結局は平等なのかもしれないとも思ってしまう。

私がリベラルなのもこうした矛盾が自己に内在しているからなのだ。

人間とは不平等で理不尽な存在だからこそできるだけ理想的な自由や平等を目指したいし、そうあるべきだと思う。

この理念を私は死ぬまで手放すつもりはないし、誰が何と言おうと変えるつもりもない。

自分はお金に興味がないし、お金を儲けたくないと思っているし、別に今すぐ死んでもいいと思っているからこそなるべく他の人に渡そうと画策し、節約しないで積極的に遣ったり、寄付したりしている。

貧しいことは素晴らしいことだと思う。

物も金も少ししか持たなければ、その分維持・管理の手間や悩みが減るし、健康的で清々しく過ごすことができる。

私は生まれも育ちも恵まれた方なので、死ぬときは独りで孤独に貧しく世間的には恵まれないような状態で死ぬことが理想である。

全ては正負の法則だと思っている。

死ぬことが結構楽しみなんだ。