人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

嫌われているのか?あるいはそこそこ好かれているのか?

学校や職場などに行くとこの自分が果たして嫌われている存在なのか?それともそこそこ好かれている存在なのか?あるいは特に誰も気にしないような空気みたいな存在なのか?気になるところではある。

ある人は嫌われたくないと思い、自分を抑えて抑制的に振る舞うし、ある人は嫌われようが好かれようが構わずありのままの自分を出そうとする。

しかし、人間の努力とは無関係にその人はある人から好かれ、ある人からは嫌われていくのだ。

特に職場という利害関係が絡む場所では好かれることの方が少ない。

考え方の違う他人とそれなりに妥協して協調して働かなければならないが、それがなかなかうまくいかないものだ。

そこで自分を抑えて相手に合わせていれば好かれるのかと思いきや意外とそうでもない。

そこに下心があるとどんなに表面的に良く見せようと努力していてもなんとなく見透かされ逆にあまり好かれないことにつながる。

かと言ってありのままの自分を存分に出すと対立し嫌われる確率があがる。

個人的には嫌われないように気を使ってペコペコしている人が苦手であり、どちらかというと嫌いである。

その人は嫌われたくないがためにひたすら下出にでているのだろうがあまりやり過ぎると逆効果だ。

むしろ堂々と自分らしくしていたほうがまだ好感がもてる。

他人を好きとか嫌いとか決める要素は一体何なのだろう?

数十年生きてきていまだにこのメカニズムがよくわからない。

思うに人間はどんなに頑張ってもどんなに努力しても好かれたり嫌われたりしながら生きていかざるを得ない宿命なのではあるまいか?

人間の心の中には努力すれば必ず成果が出ると信じたい気持ちはある。

しかし、人間関係においては必ずしも努力が成果に結びつかないこともあるし、そもそも自分を偽って努力し続けることはかなり苦しいことだ。

私は過剰に世話を焼いてきたり、お節介なタイプの人が嫌いだが相手からしたら良く思ってもらおうと努力しているのだろう。

しかし、一匹狼タイプの私のような人間は一般的にお節介が嫌いなのだ。

ただ、一匹狼タイプに限らずお節介はあまり好まれない。

なぜならお節介という言葉自体の中に既に負の意味が込められているからだ。

一般的に親切な人は好かれ、お節介の人は疎まれる。

親切な人とお節介な人の間には絶望的な距離がある気がする。

その距離とはいったい何なのだろう?

何をもって人は親切とお節介を区別するのだろう?

職場などの集団に行くと何をやっても親切な感じのする人がいる一方で何をやってもお節介でウザく感じてしまう人がいるのも事実である。

これは一見各個人の感受性によるもので人によって受け方は違うと思われがちだが実は普遍性が高いものである気がする。

親切とは相手の気持ちを推し量って尊重し必要最低限のことをできる限りやってあげるという利他の心が中心だが、お節介とは相手の気持ちを忖度せずとにかく私がこうしてあげたいからこうするのだという押し付け感がある。

前者は相手への配慮を前提とした自立支援であり後者は相手への配慮という仮面を被った傲慢さの表れであり過保護な姿である。

一言で言うと親切とは必要最低限であり、お節介とは過剰である。

職場で誰かに何かのお願いをした時に親切な人は必要最低限の仕事にプラスアルファでちょっとした心配りを添えてくれる。

これはちょっとだけポイントアップされたポイントカードみたいなものだ。

一方でお節介な人は必要最低限な仕事を勝手に自己流にアレンジしあれもこれも付け加えてこんなにやりました・・・みたいなアピールをしてくることが多い。

ポイント2倍の日にカードを持っていったらその通りに押してくれて笑顔で返してくれる人が親切だとするとポイントを勝手に5倍押してくれて今日は特別ですよ・・と感謝を期待される感じがお節介だ。

ポイントが2倍になるから行ったのに5倍にされたらなんだか肩透かしを食らった気分で逆にあまり面白くないのではないだろうか?

人間とはかく我儘な生き物なのだ。

対人関係は難しいですよ。

私のように好きなことを好きに吠えまくっているブログでも時々好意的なコメントをいただきありがたく感じている。

では、私はもっと万人受けするために自分を繕って当たり障りのないことを書けばいいのか?というとそうでもない気がする。

私がそれをやってしまったところで誰も見向きもしないと思うのだ。

結局人間とはそれぞれの役割を全うしていくしかないのだろう。

自分を取り繕うのではなく自分の良さを自然に出す努力をして自分になっていくしかない。

結果的にそれで好かれるのが一番良いのだが、嫌われてしまったとしても致し方ない。

嫌われてしまう人は例えどんなに努力しても嫌われる遺伝子なのだ。

そして、それは決して悪いことではなくしょうがないことなのだ。

その人の役割なのだから引き受けるしかないのだ。

そう思いたい。