「夢なんて諦めて現実を見なさい」というお説教がある。この言葉に反発し周囲の反対を押し切り何が何でも自分を貫き通した人の中の一握りだけが成功を掴むことができる。
逆に「夢をあきらめよ」と言われてすぐに諦めてしまう面倒くさがりで極端な合理主義の人には自分ができる範囲のあまり夢のない仕事をすればいい。
世の中には色々な仕事があるのだから自分に合ったものを見つければいい。自分が頑張らなくても他の人が頑張って成し遂げるだろう。別に自分がその仕事を成し遂げなくても良いという考え方は合理的だ。
絶対に自分でなければダメなんだと確信した人がその夢を追求し仕事を成せばよい。ただし、それが成功するかどうかは全く別物で失敗することも多い。
私が社会に出る時に真剣に悩んだことは「私にできそうな仕事はこの社会に絶望的に少なそうだ・・」という残酷な事実である。私には何も才能がなく、実力もなく、頭も悪く、忍耐力や根気や精神力もなく、出世欲や名誉欲や金銭欲もなかった。つまり、自分が生まれつき持っているエネルギーやポテンシャルが著しく低いという欠陥を持って産まれてきたのだ。
だからこそ必然的に誰も憧れない夢のない仕事を嫌々やって生きていくことしかできないで今に至っている。しかし、だからと言って人生に完全に絶望するほど悲惨なわけでもない。
なぜかこうして生きていられるのは何かの運だろう。何もやりたいことがなかったり、やるべきことが見つからなかったりする人がいて悩んでいるとしよう。
それはそれで一つの正しいことである。人間という生き物に与えられた肉体はそれぞれ恐ろしく違うのだ。他人にとってはいとも簡単にたやすく見つかる探し物が自分にはどこをどう探しても見つからなかったりする。それは探し方が悪いのではない。本質的に人生とはそういうものなのだ。ある人にとっての答えは自分にとっての答えではないのが当たり前だ。
自分がダメで悩んでいる人がいたらそのまま悩んで何も解決できずに死んでいこう。それで問題ないし、そうしていく仲間は他にもたくさんいるし、もっとはるかにどうしようもなくダメな人もたくさんいる。
私は人間は基本的にあまり大きくは変われない生き物だと感じている。それは自分と他人を取り換えることができないのと同じで基本的に自分の肉体からの支配には従わざるを得ないということである。
言い訳せずにダメな自分を受け入れた方がカッコいいように思う。世の中にはダメな自分を隠して大きく見せようとして虚勢や見栄を張りたがる人がいるがあれほど醜いものはないような気がしている。