大学時代に経済学をかじっていた。いちおう「経済学」の学士号を持っている・・などと言うとかっこ良さげなのだがそんなこともない。
ここではっきり言わせてもらうが(すでに何度も公言しているが・・)
私はお金を増やすこともお金を儲けることも全く興味がないタイプの人間なのだ。
こんな人間が経済学など学んだところで何の役にも立たないことは明白だ。
大学時代に経済学の教科書(恐らく「経済原論」か「マクロ経済学」だと思う・・)を読んでいたら「合理的な経済人」は同じ品質の商品が違う店で売られていた場合安い店で買うというようなことが書いてあった。
しかし、これはよくよく考えると前提から間違っているのである。そもそも合理的な経済人という想定からして間違っている。
私は確かに合理主義者であるが合理的な経済人ではない。
同じ商品が安く売られていたら安い方の店で買うことが多いが、毎回そうした行動を取るということはなく気分で決めてしまうことも多い。
あの店の方が少し安いけど店員の態度が気に入らないからこっちの店で買おうとか、あの店は安いけど遠くて行くのが面倒だから少し高いけど近場のこちらの店で買おうとかよくあることだ。
人間とは必ずしも合理的に振る舞うわけではないのだ。ケチな人間は経済学の教科書が想定するような「合理的な経済人」の類型に当てはまる場合が多いと思うが・・・
別に今日死んでもいいと半ば本気で思っている私のような人間は多少お金を損しても気分で買い物をするのである。
これは、明らかに合理的ではないだろう。つまり、経済学の法則に反しているのである。
経済学が悪いのか?私が悪いのか?これは、明らかに経済学の方が悪いのだ。経済学の側が何かを見誤っているのだ。
人間に感情がなくてロボットのように機械的にいつも一つの答えを導き出してその通りに行動する存在者であるなら「合理的な経済人」を当てはめてよかろう。
しかし、もっとずっと幅が広いのが人間の実態である。
人間は得したい生き物であり、時に損したい生き物であり、損したように見せかけて実は得したいと思っていたりするわけのわからない生き物である。
経済学はそうした多様な状況を想定できていない。だからこそ「合理的な経済人」という荒っぽい想定を強引にしてしまうのである。
これは、心理学にも当てはまるかもしれない。実験室で心理学の実験をしても意味がないのだ。
心理とはもっとずっと多様で複雑なものであり、場の状況に応じて臨機応変に姿を変えるものなのだ。
さて、話を経済学に戻してさらにわけのわからないことが経済学の教科書に載っていたのも印象的である。
それは、「限界効用逓減の法則」というものである。
興味がある人は自分でこの法則をググってもらえればよいと思うがこの法則の例えとして・・
1杯目のビールが最も美味しくて2杯目、3杯目・・と量が増えていくほどビールは美味しくなくなっていく、つまり追加的(=限界)な満足度(=効用)が減少(=逓減)していくというようなことを言い表した法則である。
この法則を教科書で読んだ時になんと経済学は嘘くさい学問なのか?と思った。
って言うか1杯目のビールが美味しいって当たり前でしょ。それは味覚の問題でしょ?と思うのだが。
逆に「俺は2杯目のビールが最高に美味いんだ!」って人がいたとしても全然おかしくはない。
さすがに5杯目のビールが最も美味しいという人はいないと思うが1杯目のビールを飲んで少し酔っぱらたところに流し込む2杯目、3杯目のビールが最高に美味しく感じてしまう人がいるのは何も不思議ではない。
つまり、限界効用逓減の法則に関しても同様に最初の前提や想定がおかしいのである。
だいたい、皆が皆お金を儲けたいと思っているわけがないのだ。お金があんまりいらない人とかお金儲けに全然興味がない人とか普通にいるのだしそうした人の行動までもある程度見越して理論を立てられなければ学問にならないはずである。
まあ、そういうことを言い出すと文科系の学問のほとんどは成り立たなくなってしまうんだけれどね。
学問を行う時に様々なことを疑うことが重要だとよく言われる。そういう意味で経済学は疑いたくなるようなことが山ほどある学問だからやりがいはあるのかもしれない。
大学で経済を少しかじってみて本当に良かったと思っている。それは、心の底から自分自身がお金に興味がないことを学ぶことができたからだ。
最近は実社会ですぐに役に立つ実用的なことを大学で学ぶ傾向にあるのだが、これは良くない。
社会に出ればいくらでも自分で学ぶことができる。別に大学時代に焦って社会に役に立ちそうな学問を勉強する必要もない。
特に文科系の学生は時間を自由に使ってもっと好きにやりたいことをやったり、色んな本を呼んだりして視野を広げる方が良い。
どうせ、死ぬのだし。お金と一緒で知識もいずれ使えなくなるのだから。