人生とは「私」という存在そのものが醸し出す不幸を丸ごと噛みしめるということである。こういうことを言うと「人生には不幸だけではなくて同じだけの幸福もあるじゃないか」と言う人もいるだろう。しかし、そういう一般的な意味で「幸せな人」は対象外である。
世の中には様々な幸福な形があるがその一つに鈍感力というものがある。鈍感な人というのは不幸に対してあまり繊細ではないから幸福を感受しやすい傾向がある。これは私からすれば大変に羨ましい特性である。私はいろいろな意味で不幸である。そのほとんどは私の身体から醸し出されるものだ。
私はこの身体を離れることができれば幸福かもしれない。しかし、私の身体が他の誰かの身体と入れ替わったとしたらそれはいったい誰なのか?ということだ。心(精神)と身体はつながっている。例え私がどれほどこの身体を脱ぎ捨てたいと思ってももう一生この身体から離れることはできないだろう。
同じくどれほどこの心(精神)から離れようとしても常に心がついてきてしまうはずである。私は私の身体と心に支配されているのだ。この現実が私に絶望をもたらす。私の身体は本当に本当に面倒くさい。もっと素直で楽な身体であったなら私の人生はいいものに違いなかったはずだが果たしてそんな私は私なのか?という問題は残る。
私はこの私の身体と共に歩み毎日格闘してきたからこそ私の心が今あるのだ。当たり前ながら不思議なことである。私がどんなに他人と自分を比べても何の意味もない。私は死ぬまでこの身体であり、この身体のまま死んでいくのであり、そこにぴったりと張り付いている私の心もそこにお供することになるのだから。
どんなにお金があってもどんなに努力してもどんなに願っても自分が自分であり続けることは変わらない。この現実はどんな事実よりも重たい。そしてその事実をしっかりと受け止めることは「不幸を噛みしめるということ」なのである。
不幸とはこの私が私から離れることができないことから開始される。人間が死んで生まれ変るという輪廻転生の発想もこの生き地獄的な不幸な気持ちから生まれたのかもしれない。