人生って理不尽じゃないですか???
人生を一言で言いかえると理不尽という言葉があてはまるとしか思えない。
人生が理不尽じゃない、公平だって断言できる人がいるとしたらよっぽどこれまでの人生に恵まれてきたか、究極の先天的なプラス思考か、頭が少しお悪い楽観主義者なのではないかと思う。
理性的に論理的に公正に世の中を見渡せば人生は理不尽そのものだと私は思う。
それなのに、なぜか結果で評価されるという残酷さ!!!
例えば私はブスです・・・という人がいたとしよう。残念ながらいくら性格を磨いたところで美人や美男子に比べたらモテないのは当たり前である。
それなのに・・
君は(あなたは)ブスだからモテなくて仕方ない!!
という理屈が世の中では当然のようにまかり通るのだ。
これってよくよく考えたらおかしくない??
だって、人間なんて気付いたら勝手にこの自分に生まれてきただけなんだよ。自分で選んでブスに生まれてきたわけじゃないんですよ。
それなのに、さも当然であるかのようにブスであるからモテないのは当たり前というような屁理屈が覆いかぶさってくるのだ。
こういうことがすべてにおいて平然とまかり通るのがこの世の常。
ある人は裕福な家に生まれ、小学校から大学までバイトもせずに奨学金も借りずにすべて親の金で卒業させてもらえる人もいる一方で貧しい家に生まれ、高校や大学は奨学金とバイトに明け暮れてなんとか学費を捻出したが結局勉強ができずに中退せざるを得なかった人もいる。
ある人は生まれ持った頭脳が優秀だったり、勉強が大好きだったりした結果それほど苦労せずに東大や京大や医学部に入れる人もいれば、名もなき私立大学に浪人してなんとか滑り込んだ人もいる。
若くして親を亡くして苦労している人もいれば平均寿命を過ぎても親が健在で夫婦仲良しな人もいる。
世界を見渡すとさらにさらに格差は激しい。
例えばインドやフィリピンなんて路上生活者やホームレスが溢れているし、ストリートチルドレンも多い。
住んでいるのが貧しいスラムのテントみたいな小屋という人もたくさんいる。
危険なゴミ山でゴミを漁ってなんとか一日数百円を稼ぎ、家族が一日一食食べていけるだけの人もたくさんいる。
フィリピンのアンヘレスというところに歓楽街があってゴーゴーバーという水着で女の子が躍っているお店が密集している地域があるんだけど、そこに行ったときにふとしたきっかけでゴーゴーバーで躍っている女の子が給料明細を見せてくれたんだよね。
アンヘレス ゴーゴーバー フィリピン ウォーキングストリート Angeles Philippines Walking Street Fields Avenue
そこには確かに1日の日当が120ペソと書いてあった。120ペソと言ったら300円にも満たない金額なんですよ。
もうしばらく前の話なんで今は400ペソくらい(それでも1000円に満たない額)はもらえていると思うけど、まあ8時間拘束で水着の恥ずかしい格好を男性の前にさらけ出して基本給が1日300円しかもらえないという世界がある。
それが日本から直行便で4~5時間の距離にある。これを理不尽と言わずして何というのでしょうか??と思いますね。
もちろん、ああいう水商売って指名されて良いお客さんがつけばドリンクバックや指名料や連れ出し料やお小遣いなどいろいろもらえる可能性もあるし、場合によって一攫千金も狙える可能性はあると思うので一概には言えないとは思うけれども。
私が言いたいのはとにかく世の中はすべて理不尽で回っているということ。それは誰が何といおうと確かな事実だと思う。
だから自分の理不尽も当たり前と思って受け入れざるを得ないし、生きている以上みんな理不尽に悩み苦しみ死んでいっているのは当然であり、逃れられない運命なのだということ。
それは先進国に生まれようが、途上国に生まれようが、男に生まれようが女に生まれようがLGBTに生まれようがみんな大なり小なり抱えざるを得ず、それを解決することも基本的にはできず、努力によって変えられない場合がほとんどであり、かといってそれに納得できないのも当たり前であり、この人生でもがきながら生きていくしかないということ。
世の中に正当な評価なんてないと思う。世の中正当にはできていない。結局は評価なんて個人の主観で決まるものだ。誰かの好き嫌いで決まるものだ。そして、それを変えることはできないものだ。
この人生ありがたいと思えばありがたいと思えることも少しはあるし、不幸だと思えば不幸だと思うこともたくさんみつかる。
結局は人生自体から生きること自体を問われている。我々生命とはそういうものだと思う。遺伝子の生存戦略に乗っているだけ。生きることを試されているだけなのだ、我々は。
完璧な人生なんてない。政府が老後資金2000万円必要だとかなんだとか言っているけどそういう問題でもない。お金があれば幸せなわけでも、なければ不幸なわけでもない。
いずれ、明日死ぬその日は誰にも平等に訪れる。その時までは致し方なく運命に流されるしかないのだ。