人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

頭の良い親友

私がいつも東京で食事をしている幼稚園時代からの親友は確実に高IQである。

話していると毎回、なんて頭が良いんだろう、なんて柔軟な発想なんだろう?

と感心する。

多分IQ120以上は絶対あるだろうと思う。

ちなみに東大生のIQ平均値がだいたい120くらいらしい。

彼が以前勤めていた職場は周りに東大、早稲田、慶應の卒業生達ばかりだったらしい。

東大医学部卒業後医師国家試験に不合格で浪人しながら働いている人を指導したという話しも聞いた。

不思議なことに私は彼と幼稚園児の頃、つまり5歳で知り合い、35年以上の交流があるのだが一度も喧嘩したことがなく、一度も距離が離れた時期がなかった。

これは不思議なことである。

ネイティブスピーカーの話す母国語のように自然と会話が口から出てくる自然さで付き合うことができている。

例えば彼に何かを話した時に必ずそういう捉え方もできるけどこういう捉え方もできるよねというような視点をナチュラルに提示してくれる。

そこにいつも、なるほどーと感心することになる。

IQが低い人は逆に一方の見方からしか物事か見れていないことが多い。

特にいつも私が主語で私の視点から見た言語だけを発して話しが終わる人。

こういう人は視野が狭くIQが低い。

IQが高いとは多様な視点から物事を見れることである。

それを彼と話す度に再認識する。

日本社会はどちらかというとEQの高さばかり求められている感じがする。

つまり心の知能指数の高い人が優遇される社会である。

例えば周りに合わせて動け、周りに配慮して行動しろ、物事をストレートに言うな、コミュニケーション能力が大事だというような。

確かにこういう人は付き合うと気は楽だが社会変革は起こせない。

どうでもいいことはEQの高さを意識して大事なことはIQの高さを意識していきたい。

例えば上司がもう私は歳だし引退して、若い人にどんどん仕事をやってもらわないといけない的な

どーでもいい

ことを言ってきた場合。

仰る通りですね。老害は早く引退した方がいいですね。

と言うのではなく、EQを高めて

いや、とんでもないですよ。○○さんがいなくなったらこの職場は終わりですよ。

と言ってあげるとか。

こういう世間語は大事である。

どーでも良いことには世間語を駆使して相手に不快感を与えない。

しかし、もっと本質的に自分や周りが不利益になっていたり、思考が偏っていたりする場合はストレートに違うことを伝え合う社会が良い。

残念ながら、日本社会は世間語圧が強すぎて公の場での本音が出しにくい。

これが生産性を下げている。

例えば無駄な会議。

やめた方が確実に生産性が高まるのに毎月恒例で開催されている。

無駄な会議はやめましょうと言いづらい。

なぜならそこにぶら下がって甘い汁を吸っている人達がいるからだ。

会議で何か良いことを言って評価されようとする会議ガチ勢がいたりするのだ。

こういう人達はみんな行動力がない。

自分でアクションを起こせない人達である。

だから会議などで口だけでかいことや理想を語りたがるのだ。

そんなこと言ってる前に何か人のために小さな行動をしろよと毎回思うのだが。