人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

外国語はツールでしかない

国語学習が割と楽しくて本当にちょっとずつだが、色々な言語を勉強している。

英語、中国語、イタリア語、スペイン語タイ語ベトナム語などだ。

それぞれ違った意味で難しい。

言語というものは大変奥が深くて際限のない海のように広い世界で完璧というものは存在しない。

身の回りのもの全てに固有の言葉が付いている。

日本語ですら置き換えるのに苦労するような言葉でも他言語には同様にそれぞれの言葉がある。

我々はいかに他言語を知らないかという単純なことを知るだけでその奥深さがわかる。

いわゆる無知の知というものというものだ。

例えば、椅子。
 
英語ならchairだ。

誰でも知っている。

じゃあ中国語では?

同じ椅子という漢字を書くがピンインと発音はどうか?声調はどうなる?

ここで、ほとんどの人が敗北。

じゃあ椅子をタイ語ベトナム語、イタリア語、スペイン語でなんと言う?

調べずに答えられた人は言語マニアだ。

まず絶対に多くの人は答えられないだろう。

椅子という簡単なただ一つの単語一つとっても外国語となると何もわからなくなるのが現実だ。

これが身の回りのものや概念全てにまとわりついているのが外国語の海である。

めちゃくちゃ奥が深い世界だ。

すぐに溺れてしまう。

じゃあ椅子という単語がわかった。

それぞれの言語で、

私の椅子はどこですか?

と疑問文を作れと言われたらますます大混乱だ。

めちゃくちゃ難易度が上がる。

日本語や英語で表せば一瞬で表せるこんな簡単な疑問文ですら複数ヶ国語でスマホに頼らずに言うのは難しい。

国語学習とはこうした死ぬほど面倒くさい作業を一つずつしらみ潰しにやっていく作業である。

まさに無限の世界。

いつも思うのだが、我々はどんなに外国語が流暢に喋れても外国語に堪能であっても絶対にネイティブに勝つことはできないという事実である。

例えばラジオ体操という一つの単語。

外国人が仮にラジオ体操という単語を学習し

今日の朝、ラジオ体操をしました

という言葉を喋ったとする。

外国人からしたらラジオ体操という言葉はいわゆる運動としてのあのラジオ体操そのものだ。

しかし、我々日本人からしたら小学校の頃、夏休みの朝に友達や親と一緒に広場にラジオ体操をしに行き、スタンプカードを押してもらったという固有体験としてのラジオ体操が一瞬で想起される。

あるいは中学や高校の運動会や体育祭前の全校生徒でしたラジオ体操でもいい。

そのような固有体験としてのラジオ体操が一瞬で想起できるのが我々日本人であり、ネイティブスピーカーの実力である。

うちらの小学校はさあ、夏休みはどこに集まってさ、スタンプを押してもらうために終わった瞬間ダッシュしてさあとかの話題で盛り上がることができる。

外国人からしたら全く何もイメージが湧かないし、ついていけない話だろう。

もちろん、小学生や中学生で来日してずーっと日本にいる外国人はネイティブの我々とほぼ同じ体験を共有しているのでだいぶ深い話を共有できるだろう。

しかし、成人してから来日して10年以上日本にいて日本語がペラペラで自由自在に日本語を操れたとしても固有体験の共有が我々とできていない時点でどこまでいっても結局は外国人なのだ。

それぞれの固有名詞は体験と深く結びついている。 

固有名詞は一つの体験としてネイティブ内で普遍的に想起され共有できる。

ここが非常に大きなポイントだ。

だから我々外国語学習者は今後いかなる言語を学習し、どれだけ上達できたとしても所詮は流暢に言葉を操れる1人の外国人であることを忘れてはならない。

我々はその言語のネイティブスピーカーとは深い心の共有はできないだろう。

特に子供時代の頃の思い出深い体験の共有は絶対に不可能である。

どこまでいっても我々からしたら外国語は道具であり、ツールとしての役割しか果たし得ない。

言語とはそういう側面を持った深く断絶された世界でもある。

成人過ぎて来日し、流暢に日本語が喋れる外国人と日本で生まれ育った日本人とはまるで違う。

それは逆の立場でも言えることだ。

我々がどんなに英語やスペイン語やイタリア語やタイ語や中国語を流暢に話すことができたとしても向こうからしたら所詮は母国語が上手な外国人である。

深い結びつきは最初から期待できない存在である。

固有体験を共有できないという意味で異端である。

海外の言語やそれを伴う文化を知ることは大事であるが、その本質はやはり外国で生まれ育った人には十分わからないだろう。

それは幼い頃からの学校時代の体験を共有していないからである。

これはめちゃくちゃでかい。

私は2011年の3.11の時にたまたま海外に一人旅に行っていて、帰国したのが3月末だった。

だいぶ事態が収まっていた頃に帰国したので事態がよく飲み込めなかった。

被災地でもなかったから余計にそうだった。

カンボジアシェムリアップのゲストハウスであの大津波が押し寄せる動画を見てまるで他人事に感じていた。

未だに3.11と言われてもまるでピンと来ないのである。

その時に日本にいたわけではないので状況がまるでわからないし、感想も共感も共有できない。

これがまさに外国人とネイティブとの差みたいなものだ。

今後も永遠に私にとっては3.11の話しを外国での出来事としか共有できない。

からしたら3.11は海外のテレビで津波が家屋を飲み込んでいく恐ろしい一部の光景であり、やはり世界の大きな惨事の一つであり、固有体験ではない。

言語とはそのようなものだ。

言語とは固有の体験を共有できてこそ本質的な共有ができる。

そこに共感が生まれるし、価値も生まれる。

それができない以上はどこまでいっても外国語習得はツールでしかない。

ツールは常に無機質である。

無機質なコンクリートだ。

しかし、それが現実だ。