人生とは旅である

日々の体験を通して考えることを大切にしていきます。

我感覚非常高兴,因为我不用戴口罩了。

はい、てなわけでタイトル通りです。

我感覚非常高兴,因为我不用戴口罩了。

訳すと

マスクをしなくても良いので非常に嬉しく思います。

ということ。

今日は本当に丸3年ぶりに最初から最後まで完全にノーマスクでトレーニングしてきました。

あー、めっちゃ幸せだったー。

とにかくジムでのトレーニング中のマスクが嫌でたまらなかったから。

これが3年間続いたなんて未だに信じられない。

やっとこの苦痛から解放された。

久しぶりにノーマスクでランニングマシンで走ったら凄く楽に感じた。

当たり前だけど。

息を思う存分たっぷりと吸うことができる幸せは何ごとにも代え難いものである。

最近はあまり走らないけど一時はジムで週に二回くらいマスクをしたまま10キロランニングしたりしていた。

よく頑張ったなあと思う。

今はもう無理だ。

では今から私のマスク愛を語ろう。

『私はこの世界でマスクほど嫌いなものはない』

この一言に集約できるほど私は心の底からマスクが大嫌いである。

多分、私に匹敵するレベルの正真正銘のマスク嫌いは日本には数少ないと思う。

そこら辺でノーマスクで電車に乗っている外国人以上にずっとマスクが嫌いだと自信がある。

今までの人生で私は両親とマスクを巡ってのガチ喧嘩を二十代の頃から何回かした経験がある。

私の親はマスクに親和性のある、いわゆる保守的思考の多数派の日本人タイプだから私とは全く対極に位置している。

それは置いといて私にとってこの3年間は本当に地獄だった。

よく暗黒の3年間という言葉を聞く。

私の中学3年間は暗黒だった。

とか

私の高校3年間は暗黒時代だった。

とか。

まさにこれが私のコロナ禍の3年間に当てはまる。

暗黒の三年間であった。

とにかくマスクが大嫌いでたまらない私にとってマスク着用を強制されることの苦痛というものは他の何ごとにも変え難いものであった。

私はコロナ禍において大好きな海外一人旅に出られないことも確かに苦痛であったが、何よりもマスクを強制される苦痛の方が体感的にずっときつかった。

私は以外と色々なことに耐えられるタイプの人間である。

職場で嫌な人とも付き合えるし、会社員生活にも耐えられるし、集団生活も割と大丈夫だ。

上司にお世辞を言うのも苦痛ではない。

日本食も海外の食べ物もなんでも食べられる。

いわゆる食わず嫌いが何もない。

だから小学校の時などに給食で食べられないものがあっていつまでもなかなか食べられずに悪戦苦闘している同級生の気持ちが皆目わからなかった。

当時は今のように食べられないものは残していい、食べなくてもいいという時代ではなく、出されたものはツベコベ言わずに全部食べろというプレッシャーの強い時代であった。

今から30年前まではそれが普通の時代だったわけだ。

当時はなんだコイツは。さっさと食えばいいじゃないか、こんな美味いものを!

などと思っていたものだ。

しかし、コロナ禍を経験した今

私は当時の食わず嫌いの給食を無理矢理食べさせられて悪戦苦闘していた同級生の気持ちがハッキリとわかる。

嫌でたまらないもの、嫌いで仕方ないものを強制されることがどれほど苦痛であるかを。

見るのも嫌、匂いもダメ、食べたら吐きそうになるくらい苦手な食べ物がある人って意外と世の中にいるものだ。

私にはこの感覚はまるでさっぱりわからない。

私は先述の通り、何でも美味しく食べられるタイプの人間だからだ。

しかし、マスクに関してはもう本当に全てがダメだった。

マスク自体を自分が着けることの身体的不快感はもちろんある。

しかし、同時にマスクをして弱者を守ろうだとか、マスクで飛沫を飛ばさないようにしようだとか、みんなマスクをしているからあなたもしっかりマスクをしよう

的な全体主義集団主義、見せかけの弱者への配慮だとか

それらの標語の裏に隠された嫌な感じのする一方的な正義感みたいなものに対する嫌悪感が凄まじかった。

からしたら物凄く一方的でわがままな論理に見えてしまったのである。

からしたら共産党一党独裁体制の中国政府を賛美せよ的な嫌らしさを感じるのである。

多数派から弱者を守ろう。その為にマスクをしよう。

という世間語がある。わかった。

じゃあ私のようにマスクが嫌いでたまらず、耐えられない少数派の人間はどうする?

ここで許さないのが日本社会。

集団で圧をかけて絶対にマスクをしないといけない空気感を作ってくる。

いやいや、本当の少数派であり、弱者でもあるこの私はどうするの?

という感じ。結局は私が犠牲になるしかない。

実は多数派の人間は少数派の人間の気持ちを踏みにじっていることに少しも気づかないほど鈍感なのである。

みんなが大好きな給食のカレー。

楽しみでたまらない、美味しくてたまらない。

なのになんでお前は1人だけ食べられないのだ。食べろ。嫌なものでも食べていれば好きになる。お前が食べたくなさそうにしていると周りの人も不快ではないか。お前が美味しく食べていれば周りは誰も困らないんだ。

そういう暴力的な空気感を毎日ひしひしとこの異様な日本のマスク社会で感じていたのである。

まるで給食の美味しいカレーが食べられないお前は仲間じゃないとでもいうような世間圧。

もちろん、私は給食のカレーが大好きだったからこんな風に思ったことは1ミリもないけどカレーが嫌いな人達には苦痛だったと思う。

今の職場でもカレーだけは嫌いでどうしても食べられないという同僚がいる。

匂いからしてダメなんだと。

まるで理解できないが、人間とはそういうものだ。

だからこそ多様性の理解が大事。

食べるのも食べないのも任意で良い。

マスクするしないも任意で良い。

たくさん食べたい人はたくさん食べる。

いらない人は食べない。

どうしても気になる人は二重三重にマスクをすれば良い。

なんら問題はないはずである。

しかし、それを問題視する一部のマスク教信者が世の中を暗黒に染め上げたのがコロナ禍であったと思う。

感染の拡大を防ぐ。

そのためにマスクを皆がしなければならない。

そのような一方的に偏った誤った正義が日本社会をいつの間にか完全に覆い尽くした。

高齢者や弱者を守らなければいけないんだと。

いや、それならその人達が任意でマスクをたくさん着ければ済む話。

なんで関係のない我々まで勝手に巻き込まれて強制されねばならない?

私は死ぬほど嫌だからどんなに自分が身体が弱っても歳を取っても周りの人にはマスクを着けなくて良いと言うと思う。

こういう人だって世の中にはたくさんいる。

私にとってはそれが迷惑だからである。

世の中には必ず多数派とは真逆の思考をする少数派の人間がいて、その人達も権利を持っているのだ。

多数派の宗教の人達が少数派の宗教の人に無理矢理改宗を迫って少数派がすぐに納得して改宗するはずなどないのである。

自分達には自分達の正義がしっかりとあるのだから。

それを飛び越えて強制しようとするとはなんと無礼なことか?

毎日そう思いながら日々を生きてきた3年間だった。

本当に日本人とは鈍感な民族だと思う。
少数派の主張などいとも簡単に切り捨てるし、我々の持つ権利すら1ミリも認めようとしない。

ひたすら世間語を話すことを要求する。

世間に合わせて行動することを要求してくる。

ただ、そうした少数派の主張も徐々に認められつつあるように感じている。

このコロナ禍における爆発的な感染拡大を見ればマスク着用の効果などほとんど取るに足らないという見方は十分にできるからだ。

そして、どうしてもマスクが苦手だと言う人達の声も政府に多数届いたことだろう。

だから今日本は徐々に変わりつつある。

このような暗黒時代はもう人生で二度と経験したくない。

将来また違うウイルスなり病原体なりが広がっても絶対に同じようなことが起こらないことを祈る。

我々は今回のコロナ禍で十分に学習できたはずだ。

パンデミックに正解はないことを。

あとは個人の判断を尊重すれば良い。

社会はなんとかまわるものだ。

個人の判断を尊重する社会であれ。

無理やり何かを強制する社会になるな。

ただそれだけを言いたいだけである。